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第2部 ユグリア王国の秘儀書 22.ザック:フィルーイゾンの花園

「フィルーイゾンというのは花の名前か?」  離宮の小路を歩きながらオスカーがたずねる。ザックのすぐ隣で黒のガウンが翻り、鮮やかな緑の上下がうっすら透けてみえた。 「ああ、そうだ。品種改良でさまざまな色合いの花が咲く」  質問に淡々と答えながらも、ザックはオスカーにちらちら目をやらずにはいられなかった。見慣れたユグリアの服装も、この魔法技師がまとうとまるで新鮮なものに思えるのだ。  鳶色の長い髪にはガウンと同じ黒のリボンがゆるく編みこまれ、背中に流れ落ちたところは透ける薄布で覆われていた。体の線は完全に隠れていても、顔立ちや凛とした立ち姿の美しさは隠せない。並んで歩くだけで自然に気分が晴れやかになって、ザックは昨夜ひとりで思い悩んでいたことをしばし忘れた。  オスカーのいでたち――ゆったりしたズボンと短い上着にガウン――は、王都で「師業」と呼ばれる専門職の身なりである。師業といっても医師から楽師までさまざまだが、彼らはギルドに属さず、院と称する屋敷を大なり小なりかまえて貴族や庶民の要求にこたえている。もちろん魔法技師も師業に含まれるが、なかには技の文字をはずして魔法師、という肩書にする者もいる。  師業は上に羽織るガウンの色だけ、職種によって変えるのがならわしだった。たとえば医師は灰、楽師は茜といった具合で、魔法技師は黒である。 「新しい品種をつくりだせる庭師は貴婦人方に人気があって、毎年品評会も開かれる――ちょうど今頃のはずだ」  離宮の小路から主宮殿の側廊へ入り、純白のタイルで飾られた床を歩く。オスカーは好奇心丸出しであちこちをみまわしている。 「南の庭園っていうのは誰でも入れるのか?」 「ああ。宮殿の外にある四つの庭園はマラントハールに住む者全員に開放されている。六芒星の外の庶民も同じだ。それぞれの手入れは王に命じられた五芒星の貴族に任せられている。他家が手入れした庭より自分の方が美しいと思われたくて、命じられた家は必死だ」 「おまえの家は?」  ザックはほんの一瞬ためらった。 「五芒星に屋敷があった頃は東の庭園を担当していた」  オスカーの視線がものいいたげに流れたが、すぐにそれた。かたちのいい鼻がふんふんと空気をかぐ。 「……匂う」 「え?」 「そうだザック、宮殿の厨房ってどこだ?」 「厨房はあの煙突のところだ」  ザックは主宮殿から東に伸びる翼棟を指した。 「煙突は昔の炉の名残りで、今はジェムを使った釜を使っている」  オスカーは目を輝かせる。 「あの棟がぜんぶ厨房?」 「ああ、そうだ」 「でかいな。すごい」 「王宮の食事はすべてあそこで作られるからな。小姓をしていた頃、グレスダ王陛下によく使いに出された」 「小姓? おまえが?」 「ああ。少年の頃だ。王陛下が望まれて――」  そういったとたん、ザックはとある情景を思い出した。グレスダ王はザックが柑橘水を運んだり、些細な仕事をこなすたびに、嬉しそうに自分をみたものだった。  今にして思えば、あの目は単に忠実な臣下の息子をみていただけではなかったのか。  ラニー・シグカントのいったことが本当なら。  彼が嘘をいうとも、彼に渡されたアララド王の手記の写しが間違っているとも思えなかった。 「ザック?」  オスカーがふりむく。知らず足をとめていたのに気づき、ザックは大股で彼の横に並んだ。 「いったいどうしたんだ? 新たな悩みごとができたのか?」  からかうような軽い口調だったが、鳶色の髪の下の目は気遣いの色を浮かべている。 「いや、大丈夫だ」  オスカーの手がぽん、とザックの腕を叩いた。 「大丈夫なんて言葉、あっさりいうもんじゃない。そんなやつはたいてい大丈夫じゃないからな」  横目で軽くにらむような目つきに、ザックの腹の中がきゅうっと引き締まる。この眸――この声が本当に自分だけのものならいいという思いで頭がいっぱいになるのを、あえて無視する。  オスカーには想い人がいる。ザックは聞いたのだ。この手で抱いているときですら――彼が名前を呼ぶのを。 「ああ、そうだな。気をつけよう」  内心の想いを押し隠し、ザックはつとめて軽く答えた。  主宮殿を歩くオスカーの姿は人々の視線を惹きつけていたが、当人は気づいていないようだ。ザックがおのれのスキルヤになる者を連れ帰ったという知らせは、すばやく宮殿や五芒星の貴族のあいだに行きわたったはずだ。だからこそ、ザックはオスカーに無防備に出歩いてほしくなかった。  幸いオスカーはザックが思っていた以上に用心深く、ザックが王に拝謁したり、帰還の報告と称して主要貴族を訪問するあいだ、何日も離宮に閉じこもってくれた。だから今オスカーを見ている者たちは、これが噂のザックのスキルヤか、と思っていることだろう。  南の庭園は他の三つの庭園とはちがった趣向で設計されている。この庭は五芒星の壁まで登っていく階段沿いにつくられているのだ。石畳の階段と細い小路が迷路のように組み合わせられ、小路の庁側の花壇には重く花弁を重ねたフィルーイゾンの花が咲き誇っている。  まるで地から生えたようにみえる植物は実際はすべて鉢植えだ。温室で育てられた鉢が花壇に埋められて、苔で覆われているのだった。ずいぶん費用のかかる手の込んだ方法だと気づいて、ザックはふと不安を感じた。いま南の庭園を手入れしているのはどの家だろうか。費用をかけて庭を手入れするのは王へのアピールに他ならない。その家はザックをどう思っているのか。  自分がグレスダ王の息子だというシグカントの言葉は、今日までの出来事についてザックへ新しい視点をもたらしていた。迷宮で襲撃された時だけではない。死の床で自分の手を握ったグレスダ王のこと、冒険者になる時に聞いた父の言葉――「おまえにはグレスダ王の祝福がある」――さまざまな思い出がいまや別の意味をもつようになっている。そういえばオスカーも前に「祝福」について口にしていた。そしてフェルザード=クリミリカの夜、オスカーの施術を受けている時にあらわれた蛇……。  迷宮での襲撃には二通りあったとザックは思い返す。最初の連中はおそらく自分を殺そうとしていた。だがマリガンの部隊はそうではなかった。自分を無力にした上で捕まえようとしていた。  おそらくダリウス王は知っているのだ。五芒星の貴族たちはどうだろう。  だが、初めてここに来るオスカーはザックの悩みとは無縁だった。  細い小路を歩きながら、ずらりとならぶ大輪のフィルーイゾンに目を瞠っている。品種改良をくりかえされた花々は実に多彩だ。純白の縮れた花びらの株もあれば、徐々に花びらの色合いが変わっていく株、花弁の数も、みっしりと重なるものから清楚な一重まである。小路をゆっくり歩きながらオスカーは熱心に花をみつめ、ときおり立ち止まって花弁に触れた。 「ユグリアは豊かな国だな、ザック」  いきなりそういったので、花よりオスカーをみていたザックはびくっとした。 「あ、ああ?」 「長い歴史があって……今もこんな風にきれいな花を咲かせられる」  オスカーが何を思ってそんなことをいったのか、ザックにはわからなかった。彼の生まれた島は沈んでしまったと以前聞いたから、故郷のことを思い出しているのだろうか。  南の庭園は広く静かだった。人影はちらほらみえたが、迷路のように入り組んでいて、声もほとんど届かない。 「なあ、僕はこれからどうなる?」  オスカーが小さな声でたずねた。ザックはどう答えればいいか迷った。 「この数日のあいだ、旧知の貴族を回って話を聞いているところだ。王がロイランド家を疑っていたのはたしかだが、疑いは晴れた」 「それならどうして王はおまえを離宮に置こうとする? おまえの家には帰れないのか?」 「陛下には俺に期待するものがある」  ザックは短く答えた。シグカントに渡された書物を夜を徹して読んだおかげで、今は王の意図が多少推測できるようになっている。 「期待? 何を」 「おそらくハイラーエ……迷宮探索に関することだ。すこし時間がかかりそうだが、俺は陛下の求めるものを聞き出して迷宮探索へ志願するつもりだ。そのときおまえを連れていけば、角を立てずにディーレレインに帰れる」 「昨日ラニー・シグカントと話して、そういうことになったのか?」 「いや。シグカント隊は永遠に解散になる」 「どうして?」 「彼はもう……」  ザックはつぶやき、言葉を切った。目の奥が熱くなり、こらえるためにまばたきをする。 「ザック?」 「ラニーはもうだめだろう。同じような病をみたことがある」 「いつ?」 「グレスダ王陛下が亡くなられる前だ」  オスカーの手が腕にかかるのを感じた。魔法技師の黒いガウンがザックの肩によりそう。 「辛いな」 「いや。大丈夫だ……オスカー」 「ん?」 「ラニーに会ってもらえるか。生きているあいだにおまえを紹介したい」 「それはその、おまえのスキルヤ――として?」  オスカーの声にはためらうような響きがあった。 「ザック、おまえが僕をスキルヤだってことにしたのは……当面を切り抜けるためだろう。いいのか? 僕はスキルヤの意味もわかっていない異国人だ。それらしいふりをして、本物らしくみせるのは大事だろうが、あまりその……」  ああ、その通りだ。ザックの胸はずきりと痛んだ。あの時は悪くない思いつきだと思ったし、離宮でオスカーと共にいられるのもこのためだ。だが自分が本当にスキルヤの誓いを交わしたいと思っていると、オスカーが知ったらどう思うだろう。 「すまない。おまえが嫌なら……」 「あ、いや、そうじゃないんだ」オスカーは急にあわてた表情になった。 「嫌だといってるんじゃないんだ。ただおまえが……信頼する者に嘘をつくことになるのは、良くないんじゃないかと……」  ザックの腕にかかったオスカーの手にぐっと力が入り、ふっと緩む。伏せられた睫毛をみつめて、ザックの中に思いがけない衝動がわきあがった。もう一方の手をのばし、オスカーの背中を抱く。魔法技師はかすかにふるえたが、腕をふりほどきはしなかった。 「ふりじゃなければいいのか」 「ザック」 「俺は――いや……」ザックはオスカーを胸の中に抱き、ささやいた。 「信じてくれ。約束は守る。おまえを安全にディーレレインへ帰す」 「あ、ああ……」  オスカーの頬がほんのり赤く染まり、眸が揺れた。そこにどんな意味があるのか、ザックがまた腕の力を強めたとき、背後で石畳を蹴る音が聞こえた。ふたりはぱっと離れ、ザックは足音の方をふりむいた。 「これは――リ=エアルシェ卿」 「ザック殿! 戻ったと噂になっていたぞ」  そこにいたのはアスラン・リ=エアルシェだ。ユグリア王国では名高い大商会の当主で、ダリウス王になってから貴族位を買った男。  みるからに贅沢な衣服と宝石で着飾り、栗色の短い髪には金粉をふりまいている。ザックより背は低いが、胸を張り傲岸に頭をあげた姿勢は堂々としいた。顔立ちは整っている方で、四十を超えていても肌は若々しく、腹も出ていない。  アスランはリ=エアルシェがただの商会だったころから、財力にあかせて贅沢な晩餐会や舞踏会を頻繁にひらいていた男である。いまや上流階級の洒落者にとって、アスランの催しは最先端の流行を確認する場所だった。それ以外の者にとっても彼の舞踏会や晩餐会は人と情報が集まる重要な機会だ。  ザックはいずれリ=エアルシェを訪ねることになるとわかってはいた――が、ここで会うとは思っていなかったし、その名を呼んだとたんオスカーがかすかに体を引いたのも予想外だった。ザックはさりげなくオスカーの斜め前に出た。  家柄としてはロイランド家が上だが、アスランは年長者だ。それなりの礼儀は示さなければならない。 「偶然ですね。挨拶に伺うのが遅れて申し訳ない」 「偶然ではないさ。この花園はリ=エアルシェが管理している。素晴らしいフィルーイゾンだろう? すべて私の温室から来たものだ」 「見事なものです」  なるほどそうだったか、と思いながらザックは答えた。 「ハイラーエから戻って数日ですが、父が臥せっているもので、方々に失礼をしております」  アスランは肩をすくめた。 「かまわないさ。そちらにおられるのは噂の君かな? 貴君のスキルヤになるという」  男の視線がオスカーに流れる。あきらかに見下したような、あるいは値踏みをする目つきだ。  ザックは眉をよせそうになるのをこらえた。人だろうが物だろうが、アスランは美しいものに目がないことで有名だ。 「ええ。彼はオスカー・アドリントン。私のスキルヤで魔法技師です」  ザックはスキルヤ、という言葉を強調するようにきっぱりと発した。 「オスカー、こちらはアスラン・リ=エアルシェ殿だ」  オスカーがすっと顔をあげる。 「ザックのスキルヤのオスカーだ。よろしく」  さっきまでザックと話していた時とはがらりとちがう、冷たく感じるような声音だ。しかも、さきほどザックに見せていた表情とはうってかわって、近づきがたいような雰囲気がその美しい顔を覆っている。 「ご紹介ありがとう。これはまた、とても美しいスキルヤだ」  アスランはオスカーに手を差し出した。ところが魔法技師は気づかなかったようにすばやくザックの影に入っていた。指輪をいくつもはめたアスランの手が空を切る。オスカーは頭をあげたまますっと眸を細めた。 「ああ、失礼した。アスラン殿といったか。ユグリアの風習に疎くて申し訳ない」  自分に触れることは許されないかのように平然といいはなつ。オスカーの声にはアスラン・リ=エアルシェがあきらかに格下の者だという響きがあった。ずっと高貴な立場の人間のように冷たくアスランを見据えている。  オスカーにこんな振る舞いができることにザックは驚いたが、アスランには効果があったらしい。大商会の主の眸に焦りの色がうかんだ。 「いや、ユグリアのお人でないことはわかっていたのに、こちらこそ失礼を……そのうちロイランド卿ともども、我が家の晩餐にご招待さしあげたい」  オスカーは傲然とうなずいた。 「それはどうも。僕はここでは何もわからないのでね。ザックだけが頼りだ。行こうか?」  最後の言葉はザックに向けられたものだった。オスカーの手がザックの腕をとり、先へ行こうと促す。ザックはアスランに別れの会釈をして歩き出した。立ち去るふたりの両側ではフィルーイゾンの花々が重たくこうべを垂れている。

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