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第2部 ユグリア王国の秘儀書 24.ザック:感情の境界線

 ザックはやっとペンを置き、署名にそっと息を吹きかけた。乾くのを待って折りたたみ、慎重な手つきで封蝋を垂らす。 「メイリン、これを頼む」  グレスダ王、そしてロイランド家に忠実な侍女はうやうやしく書状を受け取った。 「オスカーはどこへ?」 「近くを散策されたいとおっしゃって、一刻ほど前に出られました」  ザックの表情をすばやく読んだのか、メイリンはすぐ付け加えた。 「あの方は場と人に応じたふるまいを心得ておいでです。何かあれば私に影から知らせがくるかと」 「あなたはいまだに陛下の影と懇意なのか?」  ザックが陛下と呼んだのはグレスダ王である。メイリンはただの有能な侍女ではない。ユグリア王族をひそかに護衛する〈影〉の血筋に生まれ、幼少の頃からグレスダ王の情報源、すなわち〈目〉として働いていた。ロイランド家の侍女となったのはザックが生まれたあとのことで、これもグレスダ王の命令によるものだ。  王の影の補佐役である〈影〉や〈目〉の多くは、通常なら王位継承の際にも引き継がれる。厳密には血筋ではなく職能によって維持され、日陰とはいえ重要な役割を担う者たちだ。しかしダリウス王は伝統をやぶり、先代の〈影〉を受け継がなかった。  これはすべて父から聞いたことで、本来の仕事を失った〈影〉が今どんな状況にあるのかザックは知らなかった。〈影〉には表向きの仕事があるため、日々の生活に困ることはないはずだが、無用とされて誇りを傷つけられたのはたしかだろう。  メイリンはうなずいただけだ。 「オスカー様はあなたのスキルヤです。影ともども、何としてもお守りいたします」  メイリンが引き下がったあと、ザックはふと彼女の忠誠の理由を考えた。つまりグレスダ王が信頼する〈目〉を侍女としてロイランド家に送った理由である。メイリンは知っていたのだろうか――俺が王の子であると。  自分の外見が父母のどちらにも似ていないとは思っていたが、両親の愛情は深く、ザックは自分が彼らの子ではないと疑ったことは一度もなかった。だが自分が王の子だとしたら、母はいったい誰なのか?   グレスダ王は若い頃に妻をめとり、王子がふたり生まれたが、幼少のころどちらも疫病で命をおとし、悲嘆にくれた王妃もまもなく亡くなった。廃止されていた王の後宮が復活したのはその後のことだが、側妃に子が生まれることはなく、王弟のダリウスが王太子となった――とされている。  おそらくは政治的な理由で、ダリウス王は正妃をめとっていない。正妃に立てるのは貴族の家柄の女だけで、正妃を出した家の存在感は必然的に大きくなるから、慎重になるのは歴代王をみてもよくあることだった。  しかし後宮には王が望めばどんな身分の女性も入ることができる。ダリウス王は〈影〉は引き継がなかったが後宮は引き継ぎ、そこにはリ=エアルシェの縁故が三人暮らしていて、同年齢の幼い王子が二人いた。これこそがリ=エアルシェが貴族位を手に入れた理由だと思っている宮廷人も多く、いまや貴族となったリ=エアルシェは側妃のひとりを正妃にするよう、再三手を回しているともいわれている。  ところが今のところ、ダリウス王にその気配はみられなかった。ユグリア王国は王の血統を最重要視する。側妃の子のひとりは時期が来れば王太子になるだろうと目されてはいたものの、「秘宝狂い」ダリウス王が側妃や子供たちに何の思い入れもないのは傍目にも明らかだった。というのも、ダリウス王は王子が生まれてから一度も後宮へ足を踏み入れていないのである。  ひるがえって、ザックがグレスダ王の子であるなら、母は当時の側妃のひとりと考えるのが妥当だろう。しかし主宮殿の奥にある後宮は昔も今もザックが立ち入れる場所ではなく、いったい自分の生みの母が誰なのか、ザックには想像もできなかった。  思わず小さくため息をつく。迷宮で右腕を失くしたあとは、探索隊の仲間をみつけて王都に戻ることだけを考えていた。しかしいまや、自分自身が信じていた世界が揺らいでいるような気がしている。 「ザック様、お客様が」  メイリンの声にザックは我に返った。 「誰だ?」 「トバイアス・ランド様です」  長年の友の名にザックは思わず安堵の吐息をついた。ザックの信じるものはすべて失われたわけではないはずだ。 「通してくれ」  トバイアスは以前の通りだった――少なくともザックにとっては。黒髪をきれいに撫でつけて、襟元をわずかに着崩した様子は粋で、自分には外見をとりつくろうセンスがないと感じているザックにも好ましい。言葉を選びすぎて必要以上に無口になってしまう自分とはちがって、どんなときも如才ない男だ。 「トビー、来てくれて嬉しい。どうしている?」 「ザック」  トバイアスはちらりと室内を見回した。 「突然来て悪かったな。その……例の疑いは晴れたときいた。迷宮では……すまなかった」 「まさか。あんなことがあれば当然だ。おまえに確かめたいこともあったし、ちょうどよかった」  書斎代わりの机に積みあげた書類を重ね、長椅子に座れとうながす。黒髪の友は座って足を組み、ザックは向かいの椅子に腰をおろした。欠けている右手の指に自然に目がいく。自分が右腕を失った日、トバイアスも負傷したのだ。 「トバイアス、シグカント隊が襲撃された時、おまえがみたものをもう一度きかせてくれないか。誰があれをさしむけたか心当たりはあるか?」  トバイアスは小さくため息をついた。 「ザック、おまえは当たりをつけているか?」 「確信は持てないが、ラニーからある名前を聞いている」 「聞いていいか」 「リ=エアルシェ。確実な証拠はないが、俺がディーレレインにいるあいだも気になることが起きている」  ラニー・シグカントが苦しい呼吸のあいだに告発しただけではない。オスカーがちらりと話したナイフのことも気がかりだった。トバイアスは表情を変えず、あっさり答えた。 「正解だろう。リ=エアルシェは陛下に取り入りたくてあの手この手を試している。おまえが隠し持っていて――陛下が欲しがっている何かを手に入れようとしているとマリガンが教えてくれた。彼はリ=エアルシェが何か企んでいるのを察して探索隊をさしむけ、そこに俺たちがいたというわけだ。マリガンは俺たちの調査目的も探りたかったらしいが」 「マリガン隊に加わった、といったな――トビー、責めるつもりはない。マリガンに話したのか?」  トバイアスは居心地悪そうに目を泳がせた。 「ああ、少しは。だがあらたな昇降機の手がかりがみつかったとはいっていない。ボムが多すぎるルートの真ん中とあっては、うかつに手が出せないからな」 「それが賢明だ。マリガンは隊員を使い捨てにする評判がある。シグカント隊はもう再起できないだろうが、気をつけろ」 「再起できないというのは?」 「ラニーは重病で、回復できるかどうかわからない」  ザックは淡々と言葉をつむいだ。オスカーの時とはちがって、今は冷静に話すことができた。 「ダリウス王はラニーの成果を没収して、自分の秘宝研究に使っているようだ。小宮殿で奇妙な機械をみた」 「古代機械の再現だな。ユーリに聞いた」 「マリガンも知っているのか。……当然だな」  ザックは謁見の間で王のすぐそばに控える冒険者を思い浮かべる。 「彼は何を考えている」 「ユーリは王のために働いているだけだ。リ=エアルシェのように貴族位が欲しいわけではなく、ただ王に仕えると」 「それは他の者も同じだろう」 「ほんとうにそうか? ザック」  トバイアスの視線がなぞるように動いた。 「おまえについての噂がある。おまえの行方がわからなくなってから、一部の者のあいだで流れている噂だ。おまえが死んだと思っていたから、俺は聞き流していたが……」 「どんな噂だ?」 「グレスダ王」  トバイアスはすべてを口にしようとしなかったが、ザックにはそれだけで十分だった。トバイアスはゆっくり言葉をついだ。 「マリガンが、おまえは死んでいないといった。ディーレレインの情報源でわかったと。俺は……どう考えればいいかわからなくなったんだ」 「トビー」ザックは親友の眸をじっとみつめた。 「おまえは俺が死んだと思ったんだろう? 襲撃のときおまえは何をみたんだ? 俺はボムが爆発したあとのことは覚えていないんだ。話してくれ」 「再会したとき話したはずだがな」 「もう一度だ」  トバイアスは小さく肩をゆすり、ため息をついた。 「あの時は俺も冷静じゃなかったから、自分がみたものが本当だったのか自信がない。俺は壁の下にふっとんでいったおまえがモンスターに喰われると思ったんだ。はじめてみる種類だった。影は竜類のようにみえたが、胴と尾が異様に長くて、蛇に脚が生えたような見た目だった。ところがまばたきしたとたんにそいつが……翼のある人の姿に変わった。そいつがおまえを抱き上げたんだ。俺は幻覚をみていると思った。おまえは死んで、死の国からの使いが来たのだと」  親友の沈痛な面持ちにザックは言葉をなくした。 「すまない、トバイアス。心配をかけた」 「謀反がどうこうというのはユーリのたわごとだとは思っていたさ。俺が来ればおまえがあらわれるというのも。おまえが生きていてよかったよ。ボムにやられても……五体満足なのも」 「それはディーレレインの医者とオスカーのおかげだ」  ザックは無意識に右腕を左手でさすっていた。トバイアスが鋭い視線を向ける。 「あの魔法技師か」 「彼に頼めばおまえの指も再生できるかもしれない」 「だからあの男を選んだのか?」  かすかな棘の含まれた口調にザックは眉をあげた。 「いや。もちろんオスカーと出会ったきっかけのひとつだ」 「おまえは魔法技師なんてインチキだといっていただろうが」 「ああ、最初はあまり信用していなかった。フェルザード=クリミリカに片腕で行くことのリスクが大きすぎたから、藁にもすがるつもりだった。だがオスカーは本物だった。この腕が証明している」  ザックは右腕をトバイアスの方へ向ける。拳をつくってはひらき、自在に動く指をみせる。しかしトバイアスの眸は暗い色をおびたままだ。 「でも、なぜだ? それだけか?」  重ねて問われて、ザックの困惑はますます大きくなった。 「でも――というのは?」 「俺はおまえがスキルヤの絆を求めているとは知らなかった。おまえはそういう……興味はないと思っていた。若い時は誰だって男と経験くらいするさ。だがおまえは本気にはならない」  トバイアスはザックをさぐるようにみつめている。まさか、という思いがザックの中に浮かんだ。トバイアスは無二の親友だ。彼が誰と恋仲になっても、どんな生き方をしても友人でいられると思っていた。しかしトバイアスが自分をどう見ているのか――友人とはちがう次元で自分を見ているとは、想像したこともなかった。 「トバイアス。オスカーに出会ったいきさつはどうあっても、彼への気持ちに偽りはない。俺は彼を愛していて、彼を守りたい。そのためのスキルヤの絆だ」 「迷宮の町に流れ着いた異国人と? 俺は何年もおまえをみてきた――」  トバイアスはふいに言葉を切り、泥のような沈黙がおちた。どのくらい黙っていたのか、先に口を開いたのはザックの方だった。 「トバイアス。おまえは大切な友だ。ずっとそう思ってきたし、これからもそうだ」  黒髪の男ははじかれたように立ち上がった。 「突然来て悪かった。失礼する」 「トバイアス――」 「俺をみじめにさせないでくれ。ザック」  部屋を出ていく親友の後ろ姿をザックは呆然とみていた。傷つけたにちがいない。だが偽りはいえなかった。  それにしても、いったいいつから?  なぜ自分は友の心に気づかなかったのだろう。 「ザック様」  みると戸口にメイリンが立っている。 「トバイアス様はお帰りですか? またお客様が――お待ちください」 「ザック殿」  自分の名を呼びながら恰幅のいい男がつかつかと入ってくる。ヘイス・ラバルバ――ヘザラーン一族の血統に属し、同じ血統としてロイランド家とも親交がある貴族だ。ただし宮廷では直情的なふるまいに出すぎることで悪名が高い。  ヘイスは部屋の中央で突っ立つザックの前まで来ると、王に忠誠を誓うときのように両膝をついた。 「ザック・ロイランド・アル・ヘザラーン――いや、ザック・グレスダ・イム・デア・ユグリア。正統なるユグリアの王よ」

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