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第2部 ユグリア王国の秘儀書 29.オスカー:ユグリア社交界の招待状

 心地よいまどろみのなか、僕はがっしりしたものによりかかっていた。  オクタエの樹にちがいないと寝ぼけた頭が考える。故郷の島の山の中腹、海を見下ろす見晴らしのいいところに巨木が立っていた。根元のあたりの樹肌はざらざらしているのに、途中からつるつるとなめらかな手触りに変わる。  オクタエの巨木は子供の遊び場だったが、たまに大人に追い出された。島で誰かが死んだら、巨木の枝を切って墓標にするからだ。ナイフを入れた樹皮からは鼻をつく香気がたちのぼる。この香りが死者に寄りつく悪いものをはらい、いつまでも守ってくれる……。  ふいによりかかっている幹が動いた。  僕はぎょっとして眼を覚まし、自分がふわふわの羽毛布団に埋もれているのに気づいた。  腰に回った腕にひきよせられ、そっと顔をあげる。ザックの寝顔をみたとたん、胸がどきんとはねた。  寝台の天蓋はあげられたままだ。ザックの寝室には窓がないのに、絨毯には薄明かりがさしている。天井付近に明かりとりがあるのだろう。  僕のすぐ上からおだやかな寝息が降ってくる。ぐっすり眠るザックのひたいには白い傷跡が短く走っていた。最初に出会ったときにも気づいた、古そうな傷跡だ。  僕はザックを起こさないようにそっと指でなぞった。迷宮探索でついた傷だろうか、と思ったとき、おかしなことに気がついた。  ――生成魔法を使ったら、ふつうは傷跡も消えるはずだ。  僕が再生したのはザックの右腕だが、施術の際は全身の細胞が賦活する。皮膚表面の傷跡もなめらかになるはずだ。それなのにどうして残っているのか。  これが生成魔法で消えないものだとしたら――僕はもうひとつの可能性に思い至った。ひょっとしてこれは傷跡ではなく、生まれつきなのか。あるいは例の〈祝福〉のせいとか。  そのとたん、なぜか左胸がぴくんと疼いた。  昨夜ザックにさんざん弄られて敏感になったところだ。思い出しただけで頬がかっと熱くなって、僕は目の前にあるザックの胸にそっと顔をおしつける。  いまだに昨日の出来事が、ほんとうに自分に起きたことだと信じられないような気がする。もっとも、ユグリア王都マラントハールに連れてこられたいきさつだって、起きてみるまでは信じがたいことではあった。でも宮殿の大広間で無数の貴族の目に晒されるのは別問題だし、宮殿の大広間で王様の隣に立たされ、衆目に晒されながら「ザックのスキルヤ」だと認められるなんてことも、僕のような人間にとってはおよそありえないことだ。  王が出て行ったあとも僕らはたくさんの貴族に囲まれた。彼らのあいさつはだいたいザックが受けて立ったが、面食らったのはアスラン・リ=エアルシェだ。  庭園で会った時と同様に豪華な服装をした彼は、いきなり僕の前で片膝をついた。どうしていいのかわからずとりあえず手を差し出したら、大げさなくらい恭しく頭を下げられ、指先をそっとあわせてきた。僕はどうしたらいいのかわからず、その場は無表情で乗り切った。  離宮に戻ったあとザックから聞いた話では、あのしぐさはユグリアの古い礼儀作法で、王族につぐ敬意をあらわすものらしい。庭園で会った時とはずいぶんなちがいだが、いったいどうしてそんなことをするのやら。僕には見当もつかない。  そんなこんなで気疲れしたせいか、離宮に戻ったあと僕は長椅子でうとうとしてしまい、起きると夕食どきだった。  前の晩はデザートを残すという失態を演じたが、今度こそ落ちついていられると思っていた。それなのに食事の間にザックがあらわれたら、僕はなぜかそわそわしてしまって……いったいどうしてなんだろう、給仕の説明もろくに聞けなかった。  それでも最後まで(デザートまで)夕食を終えたあとは、宮殿で起きた出来事についてザックと話すつもりだった。王がザックをどうするつもりなのかとか、巻き込まれている陰謀とか、聞きたいことはたくさんあったのだから。  ところが居室で向かいあったとたん、僕らはなぜか黙りこくってしまった。そして気がつくと……いつのまにか、昨夜のように抱きあって口づけをしていた。  まるで磁石がくっつくみたいに、そうなっていたのだ。  ザックの唇が重なってくると、僕の左胸からさざなみのような快感が広がって、膝が勝手にがくがくしはじめる。ザックの腕に腰を支えられ、あっと思った時は視界がまわり、足が浮いていた。寝台に背中がつくと僕はもうがまんできず、必死で服を脱ごうとしていた。  メイリンが用意するユグリアの服はあちこちに釦や紐があって、ものすごくもどかしかった。ザックの手が僕の体を覆うものをむしりとった。彼もとっくに裸になって、僕のよりずっと逞しい雄が股間の茂みの上で頭をもたげる。  それをみたとたん僕ははしたなく唾をのみこんでしまい、とっさに、自分はこんな淫乱じゃなかったはずだと思った。ほんとうに――ディーレレインでは誰に誘われても、応えようと思ったこともなかった。それなのに――  羞恥で頬が熱くなっても、ザックが上にのしかかってくるとこれもどうでもよくなる。陰茎がこすれ、へそのあたりが先走りで濡れると思わず声が出て――そのあとも昨夜と同じだった。いたるところを舐められ、甘噛みされ、中をまさぐられてどろどろに溶かされ、ザックを受け入れて、なすがままに揺さぶられて……。  いつ終わったのかもあやふやだ。きっと夜のあいだに誰かが体を拭ってくれたにちがいない。  せめてメイリンではないことを願ったが、彼女には全部わかっているだろうから、今さらというものか。寝台の枕元に香油を用意していたのも彼女かもしれない。  僕はザックの胸に顔をおしつけたまま小さくため息をついた。 「オスカー?」  ささやき声が落ちてくる。ザックのやつ、いつ目を覚ましたんだろう。  髪を撫でられるのが気持ちよくて、僕はたちまち動くことを忘れてしまう。くすぐるように軽く触れる指にうっとりして……ああもう、だめだ。だめだって、オスカー・アドリントン。  僕は決意をこめて顔をあげ、ようやく昨日話しそこねたことを思い出した。 「ザック……」 「ん?」 「昨日大広間の前にいた黒い服の騎士――カイン・リンゼイ」 「ああ。彼がどうした?」 「ここに連れてこられた時――最初に僕が入れられた部屋で、あいつは僕のナイフを持って行った。リ=エアルシェのしるしをみて、隠すような感じだった」  ザックの手が止まった。 「……そうか」 「リンゼイはリ=エアルシェと関係があるのか?」 「リンゼイ家についてはそんな話は聞かない。騎士団とリ=エアルシェに繋がりがあるとも聞いたことはないが、カイン・リンゼイが……」  ザックは途中で言葉を切り、また僕の髪を撫ではじめた。朝の興奮で堅くなった雄が僕のものと擦れあう。もう一方の手はうなじから耳の裏側をたどり、背中から腰にすべってくる。あ――そこを触られると―― 「ザ、ザック!」 「ん?」 「探検隊の、ラニー・シグカントの見舞いにはいつ行くんだ?」 「ああ――」ザックの声が低くなった。 「おまえがいいのなら、今日にでも」 「僕はいつでも……この都ではすることがなくて暇だ……から……」  僕はザックの手をとめることができなかった。結局、寝台を出るのはかなり遅くなってしまった。  ザックの寝室に隣り合った浴室は僕の部屋のものより広々としていた。手抜かりのないメイリンは僕の服もちゃんと用意していた。やっと身支度をすませて食事の間に出て行くと――時刻はもう昼近かった――テーブルの中央に封書の束が置かれていた。 「メイリン、それは?」 「招待状でございます。お茶会から舞踏会まで、マラントハールの主たる家すべてから届きました」 「は?」 「ザック様とオスカー様、おふたりでのご招待です。もちろん」  侍女の眸は嬉しそうに輝いた。最後の「もちろん」には妙に力が入っていた。 「こんなに早く?」  僕はあっけにとられてつぶやいた。 「陛下がご紹介されたわけですから、当然の反応でしょう」 「で、でも昨日の今日だよ?」 「おふたりに最初に出席される栄誉が欲しいのですから、当たり前です。夜会慣れしている方々にとっては難しいことでもありませんし」  そんなものなのか。ユグリア王国にかぎらず、社交界など知らない僕は目を白黒させるしかなかったが、ザックは落ちついて書状の束をめくっている。 「メイリン、いちばん近いのは誰の招待だ?」 「アスラン・リ=エアルシェ様です。三日後の夜です」 「妥当だな」  ザックの返事に思わず口があいた。 「え? ザック」  しかしメイリンは平然とザックにこたえている。 「はい。最初に出席される場所としてもっとも適当かと思われます。先方も狙ってのことでしょう」 「そうだな。着るものは?」 「すぐに職人を呼びます。間に合わせましょう」 「ちょ、ちょっと待て。ザック、リ=エアルシェは」  僕はあわてて口をはさんだが、ザックはなだめるようにこっちをみた。 「いいんだ、オスカー。リ=エアルシェは五芒星の貴族の中でいちばん歴史が浅いが、いちばん盛大な催しをする。おまえの顔をみて満足する輩はアスランの夜会で片付けられるはずだ。この招待全部に応じることはできないからな」 「そ、そういうものなのか……で、でも僕はユグリアの正式な作法なんて、何も知らない――」 「オスカー様、ご安心ください」  メイリンがにこやかにいった。 「三日でわたくしがお教えいたします。それに以前申し上げましたでしょう? オスカー様はそのあたりの貴婦人のどなたにも負けません。リ=エアルシェの夜会で皆さまに証明して差し上げましょう」  凄みのある笑顔に押されて僕は口をとじた。ザックは何の問題もないかのようにうなずいている。 「メイリン、これからオスカーとシグカント殿のところへ行くから、戻りにあわせて手配を頼む」 「はい、お任せください」  使命感にあふれたメイリンの声を聞きながら僕はついに観念した。社交界の作法も軍隊の敬礼とたいして変わらないはずだ。きっとなんとかなる。

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