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第2部 ユグリア王国の秘儀書 30.ザック:王の闇

 ラニー・シグカントの執務室は重々しい静けさに包まれていた。  案内のメイドは「ただいまお連れします」と告げて出ていったが、寝室ではなく執務室へ案内されたことにザックは安堵していた。少なくとも寝たきりではないということだ。オスカーはきょろきょろと執務室を見回していた。大きな執務机を珍しそうに眺め、壁を埋めるようにならぶ標本棚をのぞきこむ。 「何もない。前からこうなのか?」  ザックは肩をすくめ、手短に答えた。 「以前は迷宮探索で持ち帰ったものでいっぱいだった。王に没収されたそうだ」  オスカーが答えようとしたとき、扉がひらいて車椅子がしずしずと入ってきた。ザックはさらに安堵した。今日のラニーは寝椅子に横たわっているわけではなく、しっかり背筋をのばして座っていた。衰弱した外見に変わりはないが、眸には以前とおなじ鋭い輝きがある。 「ザック!」 「ラニー、今日はお元気そうです」 「あのときはことさら調子が悪かったのだ。連れがいるのか?」  ザックはオスカーを振り返った。魔法技師は不安げな表情でシグカントをみている。数日前よりずっといい状態だとはいえ、これほどまでだとは思っていなかったのかもしれない。 「彼はオスカー、ディーレレインの魔法技師で、スキルヤの誓いを交わす者です」  シグカントがぎょっとしたように問い返した。 「スキルヤの?」 「ええ。オスカー、ラニー・シグカント殿だ」 「オスカー・アドリントンです。はじめまして」  シグカントの両手が車椅子をこいだ。ザックの予想を超えたすばやさでオスカーの正面へ動く。 「ディーレレインの魔法技師……ああ、きみがそうなのか。長い間きみを待っていた」  オスカーは怪訝な表情になった。ザックも途惑いながらシグカントをみつめる。 「ラニー、まさかオスカーをご存知でしたか?」  シグカントは謎めいた微笑みを浮かべて首をふった。 「いや、そういうわけではない。いつかきみのような者が来るだろうと思っていただけだ。ではザック、彼には秘密をうちあけているのだな」  ひょっとしてラニーは病が原因で混乱しているのではないか――一瞬頭を横切った不安をザックは押し隠した。シグカントにはたずねたいことがいくつもあったし、今日の彼は数日前とうってかわって会話ができる状態である。この機会を逃したくなかった。  シグカントは執務机の向こう側に車椅子を動かし、ザックはいつもの報告のように机をはさんで腰をおろすと、探索の最中に襲撃にあったことから話しはじめた。マラントハールに連行され、王の小宮殿へ呼び出されて不気味な魔法機械サタラスに対面したこと、襲撃の黒幕はリ=エアルシェか、マリガンの可能性もあること。  シグカントは黙って耳を傾けた。その様子はザックが最後の探索隊長として出発する前と変わらないようにみえ、すこしザックを安心させた。だからこそ、次の言葉を発したのである。 「あなたが渡してくれたアララド王の手記の……最後に書かれていたことが事実だとして」 「事実? 真実だ」  老人はさらりとザックをさえぎった。 「私とおまえの父母は真実を知っていたが、けっして秘密を洩らさなかった。だがグレスダ王の落とし子がいるという噂は昔からあったのだ。ダリウスが王になり、おまえが冒険者となったあと、おまえの面立ちにグレスダ王を思い出す者もいた」 「襲撃はそのためですか。ダリウス王陛下が俺を殺そうとしたと?」 「王が? いや」シグカントは首をふった。 「おそらく軽率なリ=エアルシェの独断だろう。あれは秘儀書や紋章、ユグリア王家が古代から継承するもののことなど何も知らぬ。ただ王に取り入りたい風見鶏で、風が変われば旗色も変える。王がおまえを無視できぬとわかればこちらへなびく。なんにせよあれは小物だ。おまえなら適切に扱えるはずだ」  ザックはアスラン・リ=エアルシェの態度を思い浮かべた。適切に? そううまくいくだろうかと思いながらも、老人のまなざしをうけとめてうなずく。 「ところでラニー、王家の秘儀書は書物の形はしていないと知っていましたか。ダリウス王は俺にあれを……開かせようとしました」  そのとたんシグカントはひゅっと息を飲んだ。 「秘儀書を読んだのか!」 「読む? あれは……たしかに俺の前で開きました。が……」  ザックは小宮殿で起きたことを思い浮かべた。しかし『秘儀書』と呼ばれる球体や金色の蛇、そして一瞬にして頭の中を駆け巡った奇妙なイメージの数々はザックの理解を超えていた。  ほとんど一瞬の経験なのに、記憶にはしっかり残っている。しかし言葉で説明すること難しい――いや、言葉にするのが不可能に思えるものだったのだ。 「うまく説明できません。あれは言葉ではなく……目でみるような像を直接頭に伝えてくるのです。像とともに色々な考えや……理解があったと思いましたが、今はもう思い出せない。あれはいわゆる書物ではないのです。言葉で語れるようなものでは――」  はたと気がついてザックは目をみひらいた。 「そうか。アララド王は言葉にできないものを書き残そうとした」 「ああ。その通りだ」  シグカントが小さくため息をついた。 「アララドは歴代王が口伝と称して伝えてきた内容が不満で、書けばきちんと伝えられると考えたのだ。彼の試みは一部ではうまくいった。アララド王は秘儀書からジェムの利用法を悟り、自分以外の者にわかるように説明できた。おまえに渡した写しは手記のごく一部だが、まともに理解できる唯一の部分でもある。だが手記のそれ以外の部分は謎めいた詩のような言葉で書かれていて、そのまま読んでも意味がわからない。アララド王の手記の多くは混乱していて、読む者の解釈にゆだねられる。……ずいぶん昔のことだが、私はダリウス王と共に手記の解釈を試みた」  なんだと? ザックは驚きを隠せなかった。 「あなたとダリウス王が?」  シグカントは遠くをみるような目になった。 「ああ。あの方はまだ少年で、私も若かった。アララド王の代になるまで、ハイラーエは古代の伝説と王家のルーツの地という以外は特に意味を持たなかった。ジェムが産業復興のかなめになるとわかり、迷宮探索がはじまっても、そこに積極的な意味はあまりなかった。古代の遺物は当時から秘宝と呼ばれたが、珍しい骨董品にすぎなかった。歴代王からしてそうだったのだ。フェルザード=クリミリカの頂点がどうなっているか、古代ユグリアで迷宮がどんな役割を果たしているか――そんなことはどうでもよかった。ジェムで国を豊かにすることの方が重要で、アララド王が残した謎の言葉など、誰も興味がなかった」  シグカントは話すのが苦しくなったかのように、深く息をつぐ。 「だがダリウス王子はちがった。私が迷宮の秘宝に興味を持っていると知って、あの方は私もある種の……秘密の探求が好きだと思ったのだろう。たしかにその通りだった。ダリウス王子は忘れられて埃をかぶっていた残りの手記を持ち出し、私たちはふたりで取り組んだのだ。あれを共に読んでいた時、私たちはたしかに友人だったのだが……やがてあの方は変わった」  まさか、シグカントとダリウス王が友人同士だったとは。ザックはいそいで考えをめぐらせた。 「ラニー、王の魔法機械のことは知っていましたか。王はサタラスと呼びました。シグカント隊の収集品を使って完成させたと……真実を告げさせる機械で、父の疑いをそれで晴らしたと」 「その魔法機械のアイデアはアララドの手記にあったものだ」  これもアララド王が?  ザックは食い入るようにシグカントをみつめ、彼の話を聞きのがすまいとした。 「……ジェムの利用法をみつけだしたアララド王はある種の天才だったから、秘儀書に啓示を受けた発明をいくつも書き残している。ふたりで手記を読み進めるにつれ、王の興味は古代の遺物を蘇らせる方へ向かった。ではダリウス王はついにやってしまったのだな。ここから持ち去ったものを使って……」  シグカントの眸が暗い影をおびる。急に疲れをみせはじめた老人にザックはいそいで問いかけた。 「ラニー、あの機械がほんとうは何をするものか、知っているのは王のみです。父はあの機械から出されたあともずっと眠り続けています。俺は父と……俺の大切なものを守るために王と取引することになるでしょう。王の目的は何か、わかりますか?」 「――レムリーの至宝だ」  その名前を聞いたとたん、なぜか身内に突き抜けてくる力を感じた。ザックは拳を握りしめた。 「それは何なのです? 渡された手記にも名前がありましたが、正体については触れられていません。グレスダ王陛下も最後に書き残しているのに」  シグカントは苦い表情になった。 「すまない、具体的にそれがどんなものかはわからぬ。歴代王は口伝と秘儀書によって名前を知るが、多くは国にとって重要なものだと思わなかった。しかしダリウス王は、それが世界一の宝……なんらかの究極の道具だと思っている。秘儀書を読めない彼はアララド王の手記をそう解釈したのだ」  声がだんだん小さくなる。シグカントの目の下に疲労の影がさしていく。 「……私はそうは思わなかった。二十年以上にわたり探索隊を送り、古代の遺物を研究しても、いまだにレムリーの至宝が現世の宝だとは思っていない。伝説によればハイラーエは神の怒りに触れ、天からふりそそいだ火に滅ぼされたという。つまりそこには滅ぶべき理由か原因があったということだ。私は『レムリーの至宝』はそういったたぐいの……ものではないかと推測した。ダリウスは受け入れなかった。我々は解釈をたがえ、以来友人でなくなった。王は私の長年の研究を奪い去ったが、意味を理解することはないだろう。マリガンなどに目をかけている以上、わかりきったことだ……」  しまいに独白のようになったつぶやきをザックは驚いて聞いていた。シグカントがこんな風に語るのをきいたのは初めてだった。ザックが呆れたと思ったのだろうか、シグカントは唇を歪めるようにして笑った。 「昔ばなしだよ。あれこれ述べたてて悪かった」 「まさか!」 「どうやら……疲れてしまったらしい。オスカー君を退屈させてしまっただろう。古代ユグリアの魔法は魔法技師の使う生成魔法とは別物だ。同じ名で呼ばれていても……」  オスカーは何かいいたそうな目つきだったが、シグカントは辛そうに椅子の背にもたれかかり、そのまま瞼を閉じてしまう。ザックがメイドを呼んだときはもう半ば眠りかけていた。  車椅子を押すメイドを見送り、屋敷の廊下を歩くあいだ、どちらも一言も発しなかった。ふたりはゆっくり廊下を歩いた。オスカーは歩きながら壁にかけられた絵を眺めている。ハイラーエの伝説に題材をとった色鮮やかな絵画から北迷宮の精緻な素描まで、迷宮探索に人生を費やした者にふさわしいコレクションである。  この屋敷に何度も足を運んでいるザックにとっては珍しいものではない――はずだった。ところが一枚の絵がザックの目をひきつけた。  鳶色のながい髪をなびかせた青年が片手をまっすぐに掲げ、崩壊するハイラーエから逃げ惑う群衆を導いている。頭上には光る珠が浮かび、真摯な眸はみる者をつらぬくようだ。 「――ここにあったのか」  思わず声が出た。  幼いころ、ザックはこの絵をグレスダ王のもとでみたのだ。父とともに王宮へ参上したとき、まるで天の使いに会ったように錯覚した。 「何が?」  オスカーの怪訝な声をよそに、ザックは自然に絵に描かれた青年とオスカーをくらべる。そっくりなのは腰までのびる鳶色の髪だけで、顔立ちはかなりちがった。今のザックにはオスカーの方がずっと美しくみえる。  それでも、絵の青年とオスカーにはどこか通じるものがある。  ふとみるとオスカーもザックの隣で、ザックの視線を追うように同じ絵をみていた。 「この絵の若者は……おまえに似ている」 「そうか?」  つぶやくようなザックの言葉をきいても、オスカーの声は疑い深そうな調子を帯びていた。 「気のせいだろう」 「もちろん、似ているとしても偶然だ。数百年前に描かれた絵のはずだ」 「似ていないさ。僕はこんな聖人のような真似はしない」  オスカーは美しい眉をしかめ、足早に廊下を進んだ。ザックはあとに続きながらもう一度だけふりかえった。絵の中の青年のまなざしはほとんど生きているかのようだった。やはり似ている、と思った。

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