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第2部 ユグリア王国の秘儀書 31.オスカー:虹と黄金
「オスカー様、お顔をすこしだけあげていただけますか?」
「お背中の釦を留めますので、一度お立ちいただいて……」
「御髪はひとふさだけ垂らすようにいたしましょう。異国の装いがさらに引き立ちます」
僕はメイリンが連れてきたロイランド家の侍女に囲まれている。居室ではザックが待っている。アスラン・リ=エアルシェの夜会に出席するだけなのに、なぜこんなことになっているのか。
「なんといっても、オスカー様の社交界デビューでございますから。ザック様のスキルヤをひと目見ようと貴婦人方も大勢お集まりとのことですよ」
いったいメイリンはどこで情報を集めてくるのだろう。今日までの三日間、彼女はユグリア上流階級の作法や踊りのステップだけでなく、リ=エアルシェの夜会に出席すると目される貴族のあらましまで僕に教授した。いま彼女は金糸がきらめくローブを両手で広げ、にっこり微笑んでいる。ローブは形こそ僕が着慣れたものに似ているが、今日の夜会用に大急ぎであつらえたものだ。
なんでもユグリアでは、王宮以外の夜の催しの際は職能や身分で定められた服装でなくてもよいらしい。だから貴族の夜の催しは新奇な意匠やさまざまなスタイルを試す場所になっているという。といわけで、今夜の僕はユグリア式魔法技師の服装ではなく、ユグリアでいう「異国風」の装いをさせられていた。
くるぶしまで垂れる細身の長い衣はつややかな琥珀色だ。この王宮に来て以来、毎日着せられていた胴着よりも軽くて楽だが、柔らかく肌にまとわりつくせいか、妙にそわそわと落ちつかない気分にかられる。足には革紐を編み上げたサンダルを履き、髪は琥珀色のターバンで巻いて(ただし両耳の横に長い房をたらし)光にかざさないと見えないような金糸の紋様が織り込まれた薄いローブを肩に羽織る。
このローブ、ほんの数日前に職人が持ってきた時は巻かれた反物の状態だった。ロイランド家は当主ごと王に軟禁されているような状態だが、資産まで凍結されているわけではないらしい。それにしてもこんなに短期間の注文に応えてくれるとは、いったいどうなっているのか。
「もちろんオスカー様のすばらしさを引き立てるためです。さあ、どうぞ腕輪を」
メイリンが金の腕輪をさしだした。薄く叩きのばされた繊細な金細工にルキアガの鱗がはめこまれている。左手首に金の輪をくぐらせるあいだも鱗は虹色にきらめいていた。
「ぴったりですね。そちらの首飾りもローブの上に出されては。ああ、ご覧ください。完璧です」
鏡のむこうの僕はどこかの王侯貴族のようにみえた。いんちき王侯貴族だ。ディーレレインの知り合いがみたら何と思うだろう。リロイは腹を抱えて笑いそうだ。ルッカやリヴーレズの鉱夫たちはどんな反応をすることか。町を出てからまだひと月も経っていない。話しても信じてもらえないかもしれない。
メイリンにうながされて居室へ行く。ザックは机で書き物をしていたが、僕をみて手をとめた。
「ザック様、準備が整いました」
「ありがとう。ちょうど迎えが来たところだ」
立ち上がったザックの装いはいつもの服装が十割ましで豪華になった感じだ。視線を下げたザックの表情が突然固まる。
「その腕輪」
「ああ……おまえがくれたルキアガの鱗だ」
ザックが黙ったままでいるので、僕は途惑った。何かまずいことでもあっただろうか?
「その、これはメイリンがつけるべきだって……」
「ああ、ああ――そうだな。綺麗だ」微笑みがうかぶ。「ルキアガじゃない、おまえが」
なぜかカッと頬が熱くなった。僕はザックの目を避けるようにそらし、顎をあげる。
「何いってるんだ。早く行こう」
離宮を出て宮殿を抜けるあいだ、周りじゅうから見られている気がして仕方なかった。
門の外にはリ=エアルシェの紋章小旗を立てた自動牽引車が待っていた。リ=エアルシェは財力をひけらかすため、すべての招待客に迎えを出すというのはメイリンに聞いた話だ。重要な客ほど迎えが遅くなるというが、はたして僕らは――最後だった。
リ=エアルシェの屋敷では召使のお仕着せもきらびやかだ。建物の中へ導かれ、大きな扉がひらかれる。僕らは階段の上から大きな広間を見下ろしていた。
「ザック・ロイランド様、スキルヤで魔法技師のオスカー・アドリントン様!」
ルキアガの腕輪をはめた手首にザックの手のひらが重なり、離れた。きらびやかな人々がひしめく広間にはフィルーイゾンの花の香りが漂い、かすかな楽音も響いている。集まる人々の目がいっせいにこちらを向いた。
ザックは僕の肘をとると臆した様子もなく階段を下りていく。僕も負けてはならないとばかりに胸を張った。こうなったら堂々とするしかない。
広間の中央で人々がさっと道をあけ、アスラン・リ=エアルシェが僕らの方へやってくる。
「ようこそおいでくださいました。オスカー様。私の前に降臨なされた神よ」
髪を金粉で飾り立てた男は恭しく頭をさげ、両掌を上にむけて僕に差し出す。僕はあっけにとられ、つぎにメイリンの教え(格上の者から格下の相手に応じる挨拶)を思い出した。差し出された彼の両手に指先を触れると、リ=エアルシェは顔をあげ、神妙な表情でいった。
「オスカー様、最初にお会いした時の私の愚かなふるまいをお許しいただき、この花園で楽しんでくださらんことを」
宮殿で彼に出くわしたときと同じく、僕は面食らった。
「あ、ああ。かまわないが――」
「かたじけないお言葉、感謝します。このアスラン、必要ならばいつでもあなたの盾として働きますゆえ。ああ、ロイランド卿、私があなたのスキルヤを崇拝しているからといって、辛く当たらないでいただきたい」
僕は無表情のままでいようと努力した。いったい何なんだこの男。本気なのか。本気で僕を、その――崇拝していると?
何がどうなってそんなことになったんだ?
「オスカー」
ザックが耳元でささやき、僕の腕を自分の方へ引き寄せた。
「アスラン殿、私のスキルヤをそのように認めてくださるのはありがたい」
「実は私はザック殿にもたいへんな誤解をしていたようなのだ。無知な成り上がりの無礼なふるまいも水に流してもらえるとありがたいのだが」
ザックはぴくりとも表情を変えなかった。
「誤解があったとは存じませんでした。ロイランド家は昔も今もユグリア王家に忠誠を誓うのみ。アスラン殿と同じように」
アスラン・リ=エアルシェは大きくうなずき返した。
「ああ、そうだとも」
王に取り入りたい風見鶏。僕はラニー・シグカントがこの男を評した言葉を思い出した。それにしてもリ=エアルシェはザックの本当の出自を知っているのだろうか。
僕は顔をあげて広間を見渡し、好奇心でいっぱいの人々の顔をみる。招待客のきらびやかな衣装には僕のような異国風の姿もちらほらみえ、そのあいだをお仕着せ姿の召使が音もなく歩いている。ユーリ・マリガンの派手な金髪の隣に黒髪の男がみえた。トバイアスだ。
いったいここにはどれだけの人が集まっているのだろう。貴族だけではなさそうだ。
「お二人ともどうか、今宵の宴を楽しまれんことを。気の早い者たちは踊りたいようですが、我が屋敷の料理人は王宮の厨房にいた者です。ぜひ料理も召し上がっていただきたい」
料理! そう聞いたとたん僕は自分が空腹なのに気づいた。リ=エアルシェはどこかにむかって手を振った。華やかな調べが広間に流れ、人々が動き出す。
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