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第2部 ユグリア王国の秘儀書 32.ザック:銀器のきらめき

 フィルーイゾンの花が香るリ=エアルシェの広間に立ち、贅をつくした装いの人々に囲まれて、ザックはほんの一瞬めまいのような感覚を覚えた。  ここにいるとハイラーエの迷宮やディーレレインの町が幻の遠い世界のように思える。人の手でいかに飾ろうとも、リ=エアルシェの広間にはフェルザード=クリミリカの壮大で神秘的な美しさや静寂はなく、ボムが埋まる岩壁に挑むときの鮮烈な緊張もない。しかしここに集う人々の中には表に出さない思惑があり、和やかな会話の裏にはさまざまな意図がうごめいている。  といっても、気まぐれな秘宝狂いのダリウス王が公の場でザックとオスカーを祝福したことも一役買ってか、友好的な目を向ける者ばかりだ。ロイランド家との関係はどうあれ、周囲に集まる人々はまず祝いの言葉をかけてくる。  しかし実際にはザックは父ともども宮殿に囚われているも同然で、ロイランド家は王の意向ひとつでどうにもでもなる状態だ。ユグリア王家に忠誠を誓っているとはいえ、このままダリウス王の直接的な支配下にあるわけにはいかなかった。今日までザックは許される範囲で知己をたずね、ユグリア宮廷周辺の状況を探り、この先どうすればいいか考えてきた。リ=エアルシェの招待に応じたのも情報という武器を集めるためだった。  それなのに集まる人々のあいだでもひときわ際立つオスカーの凛とした美貌をみると、ザックの深刻な気分は心の片隅へ追いやられてしまう。ここ数日というもの、先のみえない状況を考えていても、オスカーがそばにいるだけでともすると甘い気分に陥ってしまうのだった。彼の手首でルキアガの鱗がきらめいていると、自分でも気づかないうちに頬がゆるむ。 「ロイランド卿、スキルヤのお相手がいらっしゃったとは存じませんでした」 「ローブがとてもお似合いです、オスカー様」 「素敵なお二人のお顔を拝見できて嬉しいですわ。おめでとうございます」  初対面もなんのその、もっとも熱心に話しかけようとするのは既婚の貴婦人方である。その向こうでは社交界に出て間もない年若い男女がひそひそとささやきあっている。 「迷宮探索のあいだに出会ったって」 「めったにお顔をみれないと思っていたらこんなことに……」  冒険者になってからというもの、ザックはこういった社交の場にはほとんど出なかった。それ以前、特にグレスダ王の存命中は招待も多く、父の名代として出席することもたびたびあった――本人はあずかり知らぬことだったが、若い娘たちの結婚をまとめようと手ぐすね引いている貴婦人たちの中でザックは有望株だったのだ。しかしダリウス王の代になってからはよほど大掛かりな催しでないかぎり招かれないようになっていた。そんなザックが突然スキルヤを連れてあらわれたのだから、見逃されるはずもない。  加えてアスラン・リ=エアルシェのオスカーへの傾倒は思いがけないものがあった。王に謁見した直後、彼がオスカーに古式ゆかしい崇拝のふるまいをしたことにザックは当初裏の意味を読もうとした。しかしメイリンの情報源によればアスランは本気のようだ。  庭園で最初にオスカーと遭遇した際の無礼な態度を思うと不思議だが、あの時アスランに応じたオスカーの様子――こんな者は歯牙にかける必要もないとでもいいたげな冷たい表情――もなかなかのものだった。まさかと思うが、あれがアスラン・リ=エアルシェを射止めてしまったということか。 「ザック」オスカーがそっと腕を叩く。「あっちに料理がある。つまみに行ってもいいか?」 「ああ。一緒に行こう」  食事は隣の部屋で供されていた。今夜のような夜会では、招待客は屋敷の庭園に通じる広いテラスで自由に飲食できる。オスカーは銀器に並べられた料理に目を輝かせた。彼が給仕から皿を受け取ったときである。 「ザック兄さま、いつマラントハールにお戻りになりましたの?」  きっぱりした女性の声にザックは背後を振り返った。 「この数日、とてもイライラしましたわ。お父様は何も教えてくれないの。だから自分で確かめに来ました」  オスカーが皿を持ったまま眉をあげた。女性は他の貴婦人と同じように長いドレスをまとっているが、肩をいからせたような姿勢のせいか、立ち姿がむやみに勇ましい。 「ザック?」 「ああ……紹介する、オスカー。ノラ・バセット嬢だ。シグカント卿の縁者で――」 「いずれ冒険者になる者です、オスカー・アドリントン様。はじめまして。魔法技師なんですって?」  ノラはぱっちりした眸でしげしげとオスカーを眺めた。貴婦人の態度としてはいささかぶしつけなほど長い凝視だった。 「びっくり。お兄さまのスキルヤになるって、こんなきれいな人が?」 「ノラ!」 「ザック様と知り合った時のお話、お聞きしたいです。知り合ったのはもちろんハイラーエですよね? 迷宮探索もするんですか? あ、お兄さまと一緒に戻ってきたんだから、そういうことですよね?」 「ノラ、やめるんだ」  ザックはあわてて止めたが、オスカーの眸もノラに負けず劣らず愉快そうに輝いている。 「ザックの妹?」 「ああ、まあその……妹のようなものだ」  オスカーはノラをみつめて微笑んだ。 「冒険者になるのか?」 「もうすぐ資格認定なの」  ザックはあわてて割り込もうとした。「ノラ、それは――」 「――おや、バセット嬢ではありませんか」  背後から割り込んできた声に口を閉じる。振り返るまでもなく、声で相手がわかった。ユーリ・マリガンの濃い金髪があらわれる。その隣に黒髪の男が立っている。 「ユーリ様! トバイアスさんも」  ノラが嬉しそうな声をあげる。少女のころから冒険者になりたがっていた彼女にとって、マリガンとトバイアスはザックと同じく憧れの対象なのだ。マリガンがニヤッと笑った。 「バセット嬢、訓練所で活躍しているそうですね」 「ユーリ様、どうしてそんなに堅苦しく話すの? ああ、ザック兄さまを気にしているの?」 「ノラ?」ザックは思わず声をあげた。「いったいマリガン卿と――」 「何もありませんわ、お兄さま。訓練所で時々お話をさせていただいているだけです。ユーリ様、私もうすぐ――」  ノラの注意がそれた隙にオスカーがザックに目配せをした。 「僕はあそこにいる」テラスの方を指さす。 「おまえはゆっくり話せばいい。ひさしぶりなんだろう」 「それならおまえも」 「ザック」オスカーは声をひそめた。 「話をしながらだと味がわからなくなるだろ? おまえはゆっくり話せ。僕はあっちでゆっくり食べる。トバイアスとも話をしたいんじゃないか?」  オスカーの視線をザックは追い、親友の黒髪が広間へと動くのをみた。 「僕も彼の指が気になるんだ……ああほら、行ってしまうぞ」  オスカーはそういいながら皿の上の果物をつまんでいる。ザックはうなずき、トバイアスの黒髪を追った。ノラはマリガンに熱心に話しかけているところだ。貴婦人の扱いは慣れているはずのマリガンがなぜかノラに押され気味なのをザックは意外に思った。  トバイアスは広間の壁にもたれていた。ザックをみて眉をあげたが、かまわず隣に行く。しばらくふたりは広間を眺めながら黙って音楽をきいていた。 「やはりシグカント隊は再起しないのか」ふいにトバイアスがたずねた。  ザックはためらったが、結局正直に答えた。 「わからない。先日会った時はすこし持ち直していた。このまま良くなってくれるといいが……」  トバイアスはまた少し黙った。 「陛下に祝福されたと聞いた」 「ああ」 「この前の話は忘れてくれ。俺はどうかしていた。だがもし……シグカント隊が復活するとしても、俺は戻らない」  ザックは何と答えればいいかわからず、また黙った。どこか気まずい沈黙の背後を楽の音が流れていく。 「ザック、」 「おまえの指――」  二人は同時に口を開き、また黙った。 「ここにいたのか、トバイアス。ザック殿も」  片手に盃を持ってマリガンがあらわれた。 「マリガン卿、ノラは?」 「ここにいるわ、お兄さま」ノラが顔をのぞかせる。 「オスカー様はどちらに?」 「これから戻る」  ザックはテラスへ向かいかけたが、ふとトバイアスを振り返った。友は顔をそむけていた。マリガンがあてつけるように馴れ馴れしく話しかけている。ザックはマリガンを無視してオスカーを目で探した。彼がいるはずのテラスには人だかりができていた。大股でそちらに向かったとき、人だかりの中から不機嫌そうな男の声が響いた。 「馬鹿な。そんなもので生成魔法が使えるというのか? おぬしはわれわれ、本物の魔法技師をたばかろうというのではないな?」  剣呑な空気を感じて、ザックはあわてて人垣をかきわけた。オスカーはまだ料理の残った皿を前に椅子に座っていた。黒いガウンを着た壮年の男が彼のすぐ前に立っている。ザックは男に見覚えがあった。六芒星の内側で「魔法院」を構える魔法師、マクロックだ。  オスカーは不思議そうな目つきでマクロックを見返しただけだった。 「どうしてあんたを騙す必要があるんだ? 僕はディーレレインの魔法技師だ。疑うならみせてやるよ」

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