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第2部 ユグリア王国の秘儀書 34.ザック:悪夢の告白

 ザックはオスカーの頭が不自然に揺れるのを見逃さなかった。周囲の人々をおしのけてふらついたオスカーの背中を抱きとめる。  リ=エアルシェの客は生成魔法が成功する瞬間を目撃してざわめいていた。ユーリ・マリガンですら感服した表情だったし、いつのまにか人の輪に加わっていたアスラン・リ=エアルシェは讃嘆で目を輝かせている。 「オスカー」  なぜか魔法技師は怯えているように思えた。だが、眸によぎった不安の色はすぐに消えた。 「悪い、お腹が空いて……」はにかむような笑みが浮かび、ザックをどきりとさせる。 「久しぶりで忘れていた。施術のあとはこうなるんだ」 「何か持ってこさせよう」  ザックの声にかぶるようにアスランが「オスカー殿、いかがなされましたか?」とたずねる。オスカーはまだザックの腕に背中をあずけていたが、夜会の主催者をみて姿勢を正した。 「リ=エアルシェ殿。どうやら久しぶりの施術で消耗したらしい」 「お部屋を用意いたしましょう。すこし休まれては」 「いや……」オスカーは用心深く周囲に視線をめぐらせた。 「離宮へ戻りたい。施術はどこでもできるといったが、やはりこういう場は騒がしいな。疲れてしまった。宴はまだまだ続くのに申し訳ない」 「まさか!」アスランは大げさにへりくだった身振りで片膝をついた。 「わたくしの貧相な催しでこのような奇跡を拝見でき、これ以上の幸せはございません。宮殿までお送りいたします。今夜の出来事は長らく語り伝えらえることでしょう。マクロックは自分の驕りを思い知らされたでしょうな」  オスカーは困ったように眉をよせたが、うなずいてアスランの賛辞を受け入れた。 「ザック、いいか? おまえが残りたいなら僕一人で戻るが。トバイアスは……」  オスカーは首をめぐらし、ザックもふりむいたが、友人の姿は消えていた。広間に舞踏の音楽が響きはじめ、人々はふたりの周囲から散っていく。召使がそっと近づいて、車の用意ができたと告げた。恭しい態度のアスランに見送られて自動牽引車に乗りこむ。空いた座席にフィルーイゾンの花束と大きな包みが置かれていた。 「これは?」 「饗宴の一部でございます。戻られてからゆっくりご賞味いただきたいと主人が申しております」  ジェムの光で彩られた夜のマラントハールは昼間にまけず美しい。だが車中のオスカーは心ここにあらずといった様子でぼんやりしていた。疲れているのなら当然だ。彼はトバイアスの指を再生したのだ。ザックは自分の右腕をさすった。宮殿の入り口ではメイリンに遣わされた召使が待ち、先に立って花束と荷物を運んでいく。ザックはオスカーの腕に触れた。 「大丈夫か?」 「あ、ああ……」オスカーはハッとしたようにザックを見やった。 「悪いな。考え事をしていた」 「気がかりなことでも?」 「いや、そういうわけでも……」  オスカーは首をふり、気を取り直したように歩きはじめる。離宮につくと、何事にもすばやいメイリンが花束を花瓶に生けるよう、召使に命じているところだった。食事の間にはアスランに渡された包みが広げられている。銀皿に盛られた料理をみてオスカーは目を輝かせた。 「お早いお帰りですが、何かございましたか?」 「問題ない」  メイリンの問いにザックは短く答えた。どうせ彼女は召使たちのネットワークを通じて何が起きたか知るだろう。ザックがその場で見た以上のことも彼女の耳には入るはずで、逆にザックはあとで詳細な報告を聞くことになるのだ。  オスカーはきらびやかなローブを脱いだものの、それ以外は夜会の場と同じ姿でさっそく食卓についていた。手首にはルキアガの鱗が虹色に輝いている。ターバンで髪を巻いた姿はディーレレインで出会った時を思い出させた。  皿の料理に手を伸ばしながら「リ=エアルシェは気が利くな」と嬉しそうにいう。 「これでモンスター食があればいうことなしだが。ザック、食べないのか?」 「いや、いただこう」 「リ=エアルシェの催しはいつもあんな調子なのか」  オスカーの様子はもういつもと変わらないようにみえた。 「あんな調子?」 「貴族のほかに、魔法技師や商人や……僕のような異国の者もよく来るのか」 「珍しくはないと聞いている」ザックも皿に手をつけた。「リ=エアルシェの商会は各地と取引がある。遠い異国の使節もリ=エアルシェを通じて訪ねる場合もある」 「そうか。だからハリフナードルの……」  独り言のように小さくつぶやく。ザックは問い返した。 「ハリフナードルというと、西方の? たしか、大河の流れる砂漠にあるという――そんな遠国の者がいたのか?」 「いや、何でもない」  オスカーはあわてたように首を振る。 「ずいぶん色々な人間がいると思っただけだ。あの魔法技師、マクロックといったか? 参ったな。まあ、トバイアスの指が気になっていたから……」  そういったきり、また物思いにふけるような目になる。ザックはなぜか置いて行かれたような気分になった。 「オスカー」 「ん?」 「今のうちに礼をいいたい。ありがとう。トバイアスに代わって感謝する」 「え? いや……」オスカーの頬が赤く染まった。 「指がないと困るだろう。おまえの友達だし、僕は……自分にできることをするだけだ」  ふたりは静かに食事を終え、オスカーはもう休むといって自分の寝室へ向かった。ザックは名残り惜しくその背中を見守りながら、疲れている彼に求めるのはよくないと自分にいいきかせた。一度寝所を共にすると毎晩でも抱きたくなる。だが王都でオスカーを仮に「スキルヤ」だとしているのは、彼が異国人であることを考えた方便なのをザックは忘れていなかった。  ユグリアの上流階級にとってスキルヤの誓いは真剣で神聖なものだ。だからこそザックはメイリンにもこれが「方便」だと明かさなかった。オスカーに思いが通じたとはいえ、本当に誓いを立てるかどうかは別の問題になる。むしろザックはその前にオスカーをディーレレインに帰すべきなのだし、自分はそう約束した……。  そんなことを考えながらザックもひとりで寝床に入ったが、数年ぶりの夜会で興奮していたのか、なかなか眠れなかった。炎のような色をした光がオスカーの手の中できらめく様子が何度もまぶたの裏でくりかえされる。光は細長い紐のような形でにょろりとのび、その先端は蛇の頭のように丸く、ザックの方を向いて――  ザックはぱちりと目を開けた。せっぱつまったような胸騒ぎに襲われ、むくりと体を起こす。裸足で寝室を出たとき、かすかだがはっきりと、叫び声が聞こえた。 「う、うああああああ! やめ、いや、いや――!」  オスカーの寝室だと理解する前に体が動いた。扉を叩くこともせずザックは中に駆け込んでいた。室内はジェムの小さな明かりで足元だけぼんやり照らされているが、異常は感じられない。天蓋をむしりとるように開くと、オスカーは寝台で上体を起こしていた。見開いた両眼はまっすぐ前をみつめ、硬直したように動かない。 「オスカー、オスカー!」  ザックは声をかけたがオスカーは固まったままだ。しかしその肩に触れたとたん、ザックの首に腕が絡みつき、喉を絞めようとした。ザックは反射的に応戦した。もみあいはわずかな時間しか続かず、ザックはオスカーの両手を引きはがして寝台に押しつける。だがオスカーはぶるぶると全身を震わせ、ザックの手から逃れようとしていた。ザックは思わず怒鳴った。 「オスカー、俺だ。ザック・ロイランドだ」  オスカーの体から力が抜けた。寝台に横たわって、今はじめて気がついたようにザックをみている。 「しっかりしろ。どうした? 何があった?」 「ザック……」弱々しい声がこぼれた。「ここはどこだ? ここは……」 「マラントハールの離宮だ。夢をみたのか?」 「夢……」  オスカーは何度か目を瞬いた。 「夢か。ああ、そうに決まってる……」  ザックはそっとオスカーの髪を撫で、ひたいに手のひらをすべらせた。オスカーの体はやっと震えをとめた。 「落ちついたか? 水は?」 「あ、ああ……」  オスカーはのろのろと上体を起こした。水差しの水をコップに注いで渡したときも、まだ手が少し震えているようだった。こくこくと水を飲み干すオスカーに注意を払ったまま、ザックは寝台に腰をおろした。 「大丈夫か?」 「ああ……すまない。悪い夢を……」  肩を抱くとオスカーは安心したようにもたれかかってきて、ザックもほっと息をつく。最初は侵入者でもいたのかと思っただけに、ただの悪夢だとわかって安堵していた。自分をもっと安心させたくて、両腕を回して抱き寄せる。オスカーはされるままになっていた。胸に抱きしめて髪を撫でるうちに、眠る前に押し殺した欲望が目覚め、落ちつかなくなる。ザックはオスカーのひたいに唇をおしあてた。オスカーの背中がぴくりと反応する。 「ザック」  オスカーがささやいた。声は小さく、ほとんど聞こえないくらいだった。 「おまえに……話しておきたいことがあるんだ。いいか?」 「ああ、何でも」  ザックは腕の力をゆるめ、オスカーは枕にもたれた。 「さっきの夢だが……」  いいかけた言葉を一度切った。ためらうように息を吸い、また吐き出す。 「僕はおまえに……秘密にしていたことがある。今日のリ=エアルシェの催しにはハリフナードルの人間がいた。ただの偶然だと思うが、僕は……」  オスカーの肩が小さく上下した。ザックは待った。 「僕はあの国から逃げてユグリアに――ディーレレインに来たんだ。僕は……軍の魔法技師だった。僕は脱走兵なんだ。ハリフナードルの軍と神殿はまだ僕を追っている」

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