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第2部 ユグリア王国の秘儀書 36.ザック:願いの向こう側
父は今日も目覚めない。
ザックのすぐそばで、オスカーが眠る男をみつめている。今日の彼は王都の魔法技師の服装だった。美しい横顔は衰弱した男を目の当たりにしても何の動揺もみせていない。
彼はこんな事態に慣れているのかもしれないとザックは思う。昨夜オスカーが打ち明けてくれたことはザックの想像を超えていた。
「父君に触れてもいいか?」
オスカーがたずね、ザックは物思いからさめた。ほぼ毎日見舞っているというのに、ザックは変わり果てた様子の父にいまだに慣れることができない。自分でも認めたくないが、父に触れるのが恐ろしいのだ。意識は戻らなくとも父の体は呼吸を続けている。召使が与える水と流動食でかろうじて生きているが、そんな様子をみるのも辛い。
オスカーはそんな怖れとは無縁のようだった。ザックがうなずくと寝台にかがみこむようにして、さしのべた手のひらを父のひたいに乗せた。
「経脈が……遠いな……弱い」
手首に巻きつけられた鎖が揺れた。オスカーは魔法を使っているのだ。ザックは息をつめて見守る。自分の右腕がよみがえったように、オスカーの力で父も目覚めるのではないか。しかし魔法技師は長い吐息とともに手を離した。
「オスカー?」
そっと声をかけたが、オスカーは小さく首を振っただけで無言だった。黙ったまま父をみつめながら、ザックは亡くなった母を思い出していた。父は今のザックと同じように何日も病床の母をみつめていたものだ。その光景を思いだしながら、ザックはすこし前から心の隅にまとわりついて離れない問いをくりかえした。
俺の本当の母親は誰なのだろう?
ラニー・シグカントは何も語らなかった。父は知っているのだろうか。あるいは亡きグレスダ王以外は誰も知らないのだろうか。なぜグレスダ王は自分を父に託したのか。子がいたとわかったとき、王位をめぐってユグリアの宮廷が分裂するのを避けたかったのか。
「ザック様」侍女が耳打ちした。「陛下がお見えになっております」
ザックは驚いて振り返ったが、王はもうそこにいた。
「陛下――」
「ザックよ、ここにいたのか」
王はあわてるザックにかまわず入ってくると、眠る父の顔を眺めた。頭を下げる寸前にみえた王の顔は平然として、何の感情も浮かんでいない。腹の底がかっと熱くなったが、こらえて下を向く。
「父を見舞ってくださってありがとうございます」
「頭をあげよ。オスカー、アスランの夜会では評判だったと聞いた。六芒星の魔法院を黙らせたらしいな。マラントハールに院をひらかぬのか。仮のスキルヤであっても許可を出してよいぞ?」
いきなりの王の言葉に、オスカーは困惑した表情で答えを迷っている。ザックは代わりにいった。
「陛下、オスカーはディーレレインに自分の店を持っています。実は申し上げたいことが……」
「何だ? ここで話すのもやりにくい。来なさい」
王は外で待つ衛兵へぞんざいに手を振った。
「ザックとオスカーは私と共に来る。うしろにつけ」
小宮殿へ向かう王に従いながらオスカーを横目で見ると、ひどく緊張した面持ちだった。ザックは安心させるように微笑んだ。
ザックが小宮殿に足を踏み入れるのはこれで三度目だ。しかし今日は前の二回とは大きく様子がちがった。扉が大きく開け放たれ、窓を覆う布も取り払われて、作業服を着た工人が出入りしている。
「そこの、今日はもうよい。明日は――」
王は入口で責任者らしき人物になにごとか指示している。ザックは王の横に控えたまま天井をふりあおいだ。石柱の上に乗った顔――鈍く輝く金属でつくられた巨大な顔はあいかわらずそこにあったが、以前と何かが違っている。同じように周囲を見回していたオスカーがザックの腕をつついた。
「あれは何だ?」
「陛下はサタラスと――」
答えようとしてザックは気づいた。この顔には眸がある。以前は眸の部分が空白ではなかったか。
「ザック、オスカー! こちらへ来い」
ダリウス王が上機嫌な声で呼んだ。窓にはまた覆いがおろされている。工人は全員出て行き、扉が閉まったあとの室内は夜のフェルザード=クリミリカと同じ白い光で照らされていた。王は玉座に座っていた。あの『秘儀書』――球体を乗せた祭壇も玉座の背後にある。
「ふたりともそこに座るといい」
王は玉座の前の足台を指さし、ザックはオスカーと分けあって座った。
「話というのは何だ?」
「恐れながら、陛下にお願いが――」
「ザック、そう堅苦しく話すな」王は面倒だとでもいうように手を振る。
「結局のところおまえは私の甥なのだ。先にあれへ証明した通り」と、手首をひねって背後の祭壇をさす。「非公式ではあるがユグリア王家の一員だ」
オスカーの前で王がそういったことにザックは内心仰天したが、表情を変えないようにつとめた。今日の王には大広間で謁見した時の穏やかさともちがう、どこか親しげな表情が浮かんでいる。
「陛下、願いというのは、オスカーと正式にスキルヤの誓いを交わす際の立会人をお頼みしたいということです」
ザックは噛みしめるように告げた。
「父にこの役を務めてもらおうと思っていました。ですが今の状態では、とても……」
正式なスキルヤの誓いでは、今は行われなくなった古式の婚姻儀礼と同じ儀式を行う。絆を結ぶ者ふたりと証人となる立会人の三人が三枚の白木の丸札に血を垂らすのである。誓印はひとつずつ金属のケースに納め、三人がそれぞれ保管する。
証人になるのは通常は血縁の上位者だ。ザックの父に意識が戻らないいま、非公式ながらザックを甥と認めたダリウス王に証人を頼むのは伝統にかなったことだといえた。
「たしかにそうだな」王は膝に肘をついてザックを見下ろしている。
「スキルヤの絆を結ぶ者はめったにおらぬ。結婚に次ぐ絆とされているが、実際は結婚より覚悟が必要になるものだ。私が引き受けるのはかまわないが、急がなくてもよかろう」
王のいうことはもっともだった。しかしハリフナードルについてのオスカーの事情を打ち分けるわけにもいかない。ザックは慎重に口をひらいた。
「陛下、私はオスカーとハイラーエへ戻りたいのです」
王は不思議そうに眉をあげた。
「なぜだ? シグカントは重病だろう。まだ隊を出したがっているのか?」
「いえ、そうではなく……」ほんの一瞬、ザックは迷った。
「ハイラーエの中でも、攻略が進んだ南のオリュリバードと比べ、フェルザード=クリミリカはやっと中層に達した程度です。ボムを処理しながら高層へ達するのは簡単ではありません」
「みながそういうな」王は鼻の頭に皺をよせた。
「マリガンにも簡単ではないとさんざん聞かされた。持ち帰る秘宝の数はともかく、上へ向かう道は遠い」
「しかし陛下の望みはフェルザード=クリミリカの頂点にある。レムリーの至宝に達するためです」
ザックがそういったとたん、風に霧が吹きとばされるように王から上機嫌な気配が消えた。
「あれを獲ってくるというのか? レムリーの至宝を」
「もともとこれは陛下のお考えのはず」
ザックは手を伸ばし、王の背後を指した。
「秘儀書にはレムリーの至宝に到達する鍵がある。陛下は私がグレスダ王の血を引くと知って、秘儀書をひらけるか試されたのだ。そうですね?」
このように告げたのはある種の策略だった。王はザックの顔をしげしげとみつめ、考え直したように小さく首を振る。
「……そうかもしれぬな。そうだ。私はおまえを試した」
「陛下、フェルザード=クリミリカ攻略の鍵は、迷宮に残された古代機械にあります。低層から中層への昇降機はもう発見されている。だが秘儀書にはさらに上に向かう機械が示されています」
「機械?」
王の手がかすかに震えた。
「――わかったのか!」
「はい。ここで秘儀書に触れた時に理解しました。まるで……目に見えるかのように。陛下、シグカント隊を率いていた私なら至宝を持ち帰れるでしょう。どうか、フェルザード=クリミリカ探索の王命を私にくださいますよう。必ずかの峰の頂点に達してみせましょう」
王の頬がさっと紅潮し、まなじりがつりあがった。
「できると思うのか?」
「陛下、これまで秘儀書をひらいた王たちは冒険者ではなかった。彼らは迷宮へ行ったことがないのです。アララド王も、グレスダ王も」
「おまえはちがう。そういうのだな」
ふいに王は玉座から身を乗り出した。さっきまでの上機嫌がかき消え、怒りに満ちた目でザックを睨みつけている。次の瞬間その口から飛び出した声も、突然湧き上がったと思しき、感情のままの怒声だった。
「私のはずだったのだ! この無意味な王位……おまえはグレスダから、本来私が受け継ぐはずのものを奪った。あの生意気な蛇は私を拒絶したのだ!」
「――陛下」
「ザック、おまえが信用できるとでも? あの蛇は私を愚弄したのだ。グレスダが埃まみれで放置していた秘儀書を光の下に戻したのは私だというのに……」
不意の激情に王は息を切らし、言葉をとぎらせた。と、その時だ。オスカーがたずねた。
「王様、レムリーの至宝とはいったい何ですか?」
凛とした声だった。ザックはくるくると変わる王の感情に気おされていたが、オスカーの横顔は涼やかで、たったいま王があらわした怒りなどまるで気にしていないようだ。王は水を浴びせられたように体を震わせ、オスカーをみつめた。狂気をはらんだような怒りがそれ、ザックは内心ほっとした。
「それは――アララドが書き残した言葉によれば、時を巻き戻す魔法だ。定まった時を自在に動かし、あらゆる望みを叶える究極の道具。それがレムリーの至宝だ」
「どうして自分で行こうとしない? なぜ冒険者にならなかったんです?」
畳みかけるようにオスカーがたずねた。相手が王だと忘れたようなぞんざいな口調だった。
「秘儀書とやらがあったところで、どのみちただの道案内にすぎない。求めるものは迷宮に行かなければ手に入らない。あなたの本当の願いは、自分の手で秘宝を手に入れることでは? どうして他人に任せている? なぜ王になった?」
王はまじまじとオスカーをみつめた。毒気を抜かれたような表情が浮かんだ。
「オスカー……私には冒険者の素質がなかったのだ。そこのザックとちがい、私は魔法が使えぬ。少年のころにわかっていた。グレスダには魔法の素質があったが、私にはなかった。私にできたのは……アララドの書物を読み解くことだけだ」
「ザックが行くさ。あなたの代わりに」
オスカーはすっくと立ち上がった。
「ほんとうの願いを知られることを恐れるな。あなたはここで待てばいい。ザックがその椅子に座り、あなたが迷宮に行くよりもその方が現実的だ。僕もザックと一緒に行く」
「現実的――だと?」
王は小さく繰り返し、ふと我に返ったように玉座の上で姿勢を正した。
「しかしオスカー、おまえは冒険者ではなかろう。なぜザックと共に行くのだ?」
オスカーは尊大にもみえる仕草で腕を組んだ。
「なぜそんなことを聞く? 僕はザックの魔法技師だ。ザックは僕が守る」
王はオスカーとザックを交互にみつめ、つぶやいた。
「おまえたちは、私を証人としてスキルヤを誓うといったな……」
王はしばし沈黙し、オスカーとみつめあった。奇妙で耐えがたい沈黙がつづき、ザックが腰を浮かしかけたその時、ふと王の頬がゆるんだ。かすかな笑い声がしだいに大きく、爆発するような勢いになり、空気を震わせて響き渡る。
いつまで続くのか、本当に狂ってしまったのではないかと恐れるほどの哄笑がやっとおさまると、王の顔には憑き物が落ちたような晴れ晴れとした光が浮かんでいた。
「よかろう、ザック。望みを聞き届けてやろう。おまえたちはスキルヤの絆をたずさえてフェルザード=クリミリカの攻略へ向かうのだ。今こそ私は自分の探索隊を創設する。ダリウス・デア・ユグリア隊だ」
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