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第3部 レムリーの至宝 7.オスカー:空中庭園の香り

 冒険者ギルドを出て、僕は大きく深呼吸した。  ふりむくと、真っ暗になったリヴーレズの谷を横切るようにトロッコ線のジェム照明が点々と輝いている。空気は乾いた香料のようなほのかな香りがした。王都では気づかなかったこの町特有の匂いだ。  敷石のへこみや、人に触られてつるつるになった岩壁や、目にうつるものすべてがきらきら輝いているような気がする。何年も留守にしていたわけでもないのに、どうしてこんなに胸がしめつけられるような気分になるのだろう。  空中庭園の方向へ向かうと自然に早歩きになってしまうが、そのあいだも僕は鼻をひくひくさせていた。夕食は冒険者ギルドの食堂でとるとザックにはいったが、戻る前にどこかでおやつを手に入れてもいいんじゃないか。そうだ、フェルザード=クリミリカに出発する前に竜骨スティックを補充しなければ。  リロイは店じまいしている時刻だが、変わり者の絵描きは客がいなくても、夜中でも、外でスケッチをすることがある。家にいることを願いつつ奇岩のそそりたつ庭園の端までくると、草の青い香りが鼻をついた。リロイの住居である岩からは黄色い光が細く漏れ出ていて、僕は安心した。どうやら探し回らなくてもすみそうだ。僕は岩壁にとりつけられた梯子を登った。あと二段というとき、頭のてっぺんに硬いものがおしつけられた。 「何者だ。ここで何をしている」 「リロイ! 僕だ。オスカーだ」 「なに?」  頭を押さえつけている硬いものがずれた。僕は顔をそっとあげる。リロイがジェムのランプを向け、眩しさで目がくらむ。 「オスカー?」 「眩しいよ」僕は片手をかざす。「さっき飛行艇で着いたばかりなんだ。|滑板車《キックスクーター》を取りに来たんだ。預けていただろう?」 「飛行艇――まさか今日冒険者ギルドに来た連中と一緒だったのか?」 「そのまさかだ。登っていいか?」  梯子段を登りきったとたん、リロイの手が僕の腕をつかんだ。ランプに照らされた年齢不詳の顔が僕をみつめ、大きくほころぶ。初めてみるような笑顔だった。 「オスカー……本物だな!」 「もちろん本物さ。迷宮でいろいろあって、そのあとマラントハールに行っていた」 「王都に? きみは客を追いかけて迷宮まで遠足だといったじゃないか。どうしてそんなことになる」 「えっとそれは……話すと長い。ものすごく色々なことがあって……宮殿で王様に会ったり、伴侶ができたり」 「伴侶ぉ?」  リロイの驚きももっともだが、僕は彼の住まいへとらせん階段を下りた。隅にリロイに預けた乗り物が立てかけてある。 「簡単に説明すると、迷宮まで追って行った冒険者が謀反の疑いで騎士団の飛行艇に捕まって、僕も一緒に捕まったんだが、王様の勘違いだったってことで疑いが晴れて、王様はその冒険者に自分の探索隊を任せることになって、僕はその……彼の伴侶になる誓いを立てて、探索隊の飛行船で戻った」 「オスカー。悪いが、ぜんぜん簡単じゃない」  リロイは顔をしかめ、僕をじろっとみた。 「何をどうなったら遠足がそんな結果になるんだ。さっぱりわからない。伴侶になる誓いって、相手は」 「僕も北迷宮に行った時はこんなことになるって思ってなかった。伴侶というか、スキルヤの誓いってやつだけど、最初は異国者の僕がマラントハールで安全にすごすための方便で――」 「スキルヤだと?」  リロイの目が大きくなる。 「じゃあ、相手は男なのか?」 「……あ、うん、その……そうだ……」 「色事に見向きもしなかったきみが?」 「ザックはルッカの親父さんの紹介で、右腕を再生してやった冒険者で……」  僕はまごまごしながらいった。いったいどこまで話していいのか、というのもあるが、それ以上になんだか恥ずかしい。何しろリロイのいったとおり、僕はディーレレインに来てこのかた、誰にコナをかけられても鼻で笑ってきたのだ。仲のいいガイドや鉱夫たちは、僕が誰ともつきあう気がないとわかると、絡んでくる連中から守ってくれるようになったくらいである。  リロイは僕をじいっと、珍しい動物でも観察するみたいにじいっとみて、それからいった。 「おめでとう、というべきなのか。オスカーの目にかなったとは、私もその冒険者に会ってみたい」 「ああ、時間があれば。ただ、僕らは準備が整いしだい北迷宮に行くんだ」 「? きみも行くのか?」 「ああ。またザックが腕を落とすなんてことがあっても、僕がついていれば元に戻せる」  リロイはまたも奇妙な目つきで僕をみやり、それから小さく首をふった。 「そうか、伴侶、といったな……」  僕は|滑板車《キックスクーター》を小脇にかかえた。 「リロイ、ゆっくりしたいところだが、いちど店に帰りたいんだ。明日の朝は谷の展望台に行くから、その時にもう一度寄るよ」 「待ってくれ、オスカー」リロイが鋭い声でいった。 「きみが戻ってこないあいだに、王に関する妙な噂を聞いた。着いたばかりの飛行艇のことも――」  リロイの目つきが真剣なので、僕は思わず聞き返した。 「噂? どんな?」 「グレスダ王に隠し子がいて、ダリウス王はその男に北迷宮の頂点にある秘宝を持って帰るよう命じた、という話だ。なんでも、秘宝を持ち帰れば先王の子と認めると。その男はそのためにダリウス王の名前を冠した迷宮探索隊を結成した、と」  隠し子? ザックのことはそんな風に伝わっているのか。それにしても秘宝を持ち帰ればなんて――そんな話だったか?  僕は一瞬迷って、それから簡単に答えた。 「そんなのはただの噂だ。僕らは王様が望んでいるから秘宝を探しに行くだけさ。王様は迷宮の秘宝に取り憑かれているんだ」  リロイがずばりといった。 「つまりその男がきみの伴侶なんだな」 「あ――ああ」  僕はうなずいた。リロイは呆れたようなため息をついた。 「……まったく驚くよ。何をどうすればこんなことになるんだ? とにかく、気をつけて行け」  僕はキックスクーターでディーレレインの街路を駆けた。ジェムの黄色と橙の光が岩の表面を暖かな色に染め上げている。あちこちで輝くジェムの光が僕の影をいくつもの方向にのばし、僕が走ると影は岩壁の上を踊るように動いた。  マラントハールの王様の宮殿は白い石づくりで、青いタイルで飾られていた。街や庭園には太陽が照りつけ、広々としていた。たしかにユグリア王国の都は美しかった。でもディーレレインに戻ってくると、この町の柔らかくて暖かい色あいの方が好きなのだと気づく。  観光客とガイドが目立つ広い通りを横切り、自分の店がある横丁への近道を進む。誰もいない狭い小路からゆるやかに曲がる坂道へ、そしてまた大通りへ。  ここはエガルズの横丁のすぐ近くだ。そう思ったとたん、鼻先をいい匂いがくすぐった。  ああ、これは肉饅頭が蒸しあがる匂いだ。ふかふかの生地に、香ばしいタレで煮込んでとろとろになったパズーの肋肉が包まれて、あつあつのやつを両手でお手玉しながらかぶりつくと、肉汁が口の中でじゅわっと広がって……。  想像するだけで唾がわき、腹の虫がぐうっと鳴いた。僕は|滑板車《キックスクーター》のブレーキをかける。夕食前のおやつくらい、いいじゃないか。肉饅頭をひとつ買っても夕食はじゅうぶん食べられる。そうだろう?  またスクーターに片足をかけて、匂いのする方に向ける。エガルズの横丁は夕食を求める人でごった返している。あまり奥まで行くのはまずい。僕はいちばん近い屋台の前で乗り物をとめた。 「肉まんひとつ」 「おいっ」  売り子は僕の目の前で蒸籠から真っ白の饅頭をとりだし、薄い茶色の紙でくるんで渡した。僕は片手に戦利品をもち、片手で乗り物をひきずって屋台の前を離れた。  包み紙の隙間からはもっちりした白い生地がのぞいている。見た目も匂いもたまらない。王都のモンスター料理もよかったが、やっぱり僕はディーレレインの屋台が大好きだ。ちくしょう、今すぐ食べたい……とりあえずここでひとくち齧って、それから走っていくのはどうかな?  匂いの誘惑に今にも負けそうになった、その時だ。 「オスカー!」  名前を呼ぶ声とともに、誰かが僕の背中にぶつかってきた。

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