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第3部 レムリーの至宝 17.オスカー:扉を開くもの

 冒険者ギルドの携帯食はそのままではお世辞にも美味いとはいえない。でも少し手を加え、夜明けの澄んだ空気の中で食べるとかなり味は良くなる。たとえば湯をわかして粉末ミルクと蜂蜜を溶き、穀物バーを割り入れ、さっと煮てミルク粥にする、とか。ただし味はいまひとつ単調だ。というわけで、僕はディーレレインの店から持ってきた小瓶の中身を椀にほんのすこしだけふりかける。 「それ、なんですか?」とノラがたずねた。 「カダスミーダのフレーク。味見したい?」 「いいんですか?」  ノラが嬉しそうにいったので、僕は椀を彼女の前に差し出した。カダスミーダはオリュリバードでみつかる岩樹で、アディロと同じく植物にしかみえないが、迷宮モンスターの一種だ。フレークはその表皮を精製したものだが、木の実のようなフレーバーと、塩甘いとでもいうような複雑な味わいをもつ。  ディーレレインでは細かく砕いたものを砂糖や塩にまぜて使ったりもする。ただし値段は竜骨スティックの十倍以上するから、もったいなくてなかなか減らない。というわけで奥にしまっておいたのを、このさいだからと持ってきたのである。  このまえ店を離れた時、僕はほんの数日留守にするつもりだった。でも実際はどうなった? 北迷宮からマラントハールへの大旅行だ。宮殿で出された食事はとても美味しかったが、それでも僕はディーレレインで慣れ親しんだ味に飢えていた。人生は何が起きるかわからない。貴重だからとしまいこんでいたら、二度と味わえないかもしれない。  ノラは湯気の立つ粥からスプーンですくい、そっと口に入れた。 「香ばしい匂い――まあ」 「どう?」 「おいしい! 塩っぽい味かと思ったら、あとで甘味が強くなるんですね!」 「ノラのお粥にもかけようか。量が肝心でね。たくさん使うとだめなんだ」  ぶんぶんとうなずいたノラの椀にフレークをふって、僕らはせっせとお粥をかきこんだ。ハイラーエの峰に囲まれているので、僕らがいるところからは地平線は見えない。でも空は夜明けの薄明かりで満たされ、足元では携帯コンロが橙色の光を放っている。他の冒険者たちも朝食をとったり顔を洗ったりと忙しそうだが、ザックの姿はみえなかった。目が覚めた瞬間はテントの中にいたのだが、身支度して外へ出るともういなかったのだ。 「オスカーさん、隊長はどこに?」  食器を片づけているとき怪訝な顔をしたサニーがたずねたが、僕は首をふるしかなかった。マリガン隊の方からはユーリ・マリガンとトバイアスが二人並んでこっちへやってきた。みんなザックを探しているのだ。いったいどこに行ったんだろう?  僕は何気なく上を見上げ、空がどんどん明るさを増すのをみた。峰のあいだから一筋、金色の朝日が射しこんでくる。光はまっすぐ岩壁にあたって―― 「ザック! そこにいたのか!」  光を追って首を回したときザックの白い髪がみえた。キャンプからすこし離れたところ、岩壁が襞のように折り重なっているところに立っていたのだ。朝日が狙ったようにザックのいる場所を照らしていた。自然に僕らはザックのそばへ近づいて行ったが、ザックは僕の声にこたえることもせず、こちらをふりむきもせず、じっと壁をみつめている。昨夜は黒くみえた岩肌の表面はちらちらと金色に輝いていた。  僕は立ち止まり、まばたきした。金色の線が何本もするすると、ロープがうねるように岩壁の上を通りすぎていったようにみえたのだ。 「ここに入口がある」  壁をまっすぐ向いたまま、ザックがひどく抑揚のない声で、誰にともなくいった。 「全員、ここへ集まれ」  サニーとトバイアスがハッとしたようにふりむいて、まだキャンプのあたりにいる連中に合図を送った。誰ひとり声をあげなかったのはきっとザックの様子のせいだ。見慣れている背中なのに、神がかっているような、怖いような雰囲気が覆って、僕も喉がつまったように言葉が出なかった。  ザックは岩を睨みつけながら右手をのばし、岩肌にぐっと五本の指を押しつけた。みるまにそこから金色の線が生まれ、するすると長く伸びると、まるで蛇がうねるような動きで四方に広がり、かたちを作っていく。  ザック以外の僕らみんなは息をのんでその様子をみつめていた。金色の線は消えることなく、まるで光を絵具にして絵を描いているようだ。そう思ったとき、そこに描かれているのが巨大な扉だと気づいてぎょっとした。そのとたん光の線は動きを止め、ザックは岩に押しつけた手を離すと、光で描かれた扉の真ん中にあるノッカーをつかんで(本当につかんでいるようにみえたのだ)何度か岩壁を叩いた。  岩壁からピピピッと、小鳥が鳴くような、それでいて金属的な、奇妙な音が響いた。胸の上で魔法珠がかすかに揺れる。地面がわずかに震えている。光で描かれた扉の真ん中に亀裂が生まれ、岩壁がしずしずと左右に割れていく。ニーイリアの巨大な岩壁が動いているのだ!  うおお、とか、ああ、とか、そんな声がきこえた。僕もふくめてザック以外の全員が驚きの声をあげていた。朝日は岩の内部にさしこんでいるが、広がるだだっ広い空間を照らすには到底足りないというように、奥も左右も暗がりに覆われて全体がみわたせない。暗いところは黒い靄のようなものに覆われているようにみえ、ただの暗闇以上に不気味だった。  でもザックは恐れる様子もなく一歩足を踏み入れた。彼の足元で金色の線が三重の円を描いて点滅している。どうしてそう思ったのかわからないが、警告のように感じられた。  ザックのうしろで、僕もふくめた他のみんなは躊躇していた。驚きの瞬間がすぎたあと、今はみんな口をつぐんでいる。岩壁が開いたときの奇妙な音もやみ、すべての音が吸いこまれてしまうような静けさが満ちていた。耳鳴りがしそうだ。僕は耐えられず、思わず口を開いた。 「ザック、入るのか?」  ザックは僕をふりむいた。 「ああ、ここは転移制御室だ」 「暗いけど、大丈夫――」 「暗い? どこが?」  不思議そうに問い返すザックをみて、僕は不安にかられた。彼の目には僕らにみえないものがみえているのだろうか? 「ザック、おまえが何をみているのかわからないが、僕には……ここは暗すぎる」 「あれがみえないのか?」  ザックは顔をしかめたが、次の瞬間ハッとした顔つきになる。 「ああ、そうだ。管理者が許可を与えなければ都の外部者は近づけないのだった。待て――」  いったい何の話をしているのかさっぱりわからない。僕の困惑をよそにザックはまた一歩前に出る。彼の足元を囲む金色の線は渦となり、点滅の速度がより早くなる。僕はまた不安にかられた。 「ザック、大丈夫なのか?」  ザックは僕に答えず、右腕をあげて指をひらひらさせている。そこにある見えない装置を操っているかのようだ。彼の指先から金色の線が伸び、蛇のようにくねくねとうねりながら空中をたどっていく。 「そこで待っていてくれ。守護者の警報を解除し、全員に接続許可を」  ザックの声が途切れた。同時に僕はウウウ、と唸る不気味な声を聞いた。岩壁の中の黒い靄が光の中に集まり、二本の角がある獣の姿を形づくる。僕の三倍はある巨体をして、獣なのに二本足で立っている。頭部で赤い目が光り、その上にのびた漆黒の角は剣のように尖っている。 「イオスボだ」  しゃがれた声で誰かがいった。一瞬おくれてアガンテだとわかった。 「やべえな。来るぞ。隊長、どうする――」  ザックが右手を宙にあげた――しかし迷宮のモンスターはすでに、僕らに向かって突進していた。

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