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第3部 レムリーの至宝 23.オスカー:かつて蹂躙された者の霧

 僕はザックを追って、勝手にせりあがっていく金色の螺旋階段を登ろうとしていた。段の上からザックが僕に手を差し伸べるのもたしかにみえた。ところが次の瞬間、どこからか湧きでた白い霧がなにもかもを隠してしまった。  足元で風がうなるのに似た不気味な音が響く。他の連中もいなくなって、僕は霧の中に立ち尽くしている。 「ザック! どこだ! 何が起きた!」  ぶわっと足元が揺らいだような気がした。濃い霧をかき分けるように前に進むと靴先で霧が割れ、目の前に細く頼りない螺旋階段があらわれる。曲線の行く手は霧に吞みこまれ、どこまで続いているのかまったくわからない。ザックは先に行ってしまったとして、僕のうしろにいたはずの他のみんなはどうなったのか。誰の声も聞こえず、足元ではずっと風のうなりに似た音が鳴っている。 「ザック! ノラ! サニー!」  霧に力を奪い取られたように僕の声は頼りなく響いた。仕方がない、僕は覚悟をきめて段を登る。霧があらわれるまえのように勝手に動くのではないかと思ったが、そんなことはなかった。ぐるっと螺旋を一周上って、また一周。 「ザック! 返事をしてくれ!」  タン。タン。  上の方から物音が響いた。靴音だ。ザックにちがいない。僕は階段を駆けあがった。その拍子に髪が前に垂れて、いつのまにかターバンがなくなっているのに気づく。タン、タン、という靴音はまだ聞こえている。急がなければ。  霧の中に人影がみえた。背中を向けている。ザック、とまた呼ぼうとした時、影がくるりとまわって僕をみおろした。 (オスカー) 「……ファーカル?」  馬鹿な。ファーカルは死んだ。僕は白昼夢をみているにちがいない。  頭ではそう思ったのに僕の足は勝手に動いた。一段一段、のぼるたびにファーカルの姿は鮮やかになっていく。短く刈った髪、すこし垂れた目元。近づいていく僕をみて、張りつめていた頬がかすかに緩む。うすい唇がすこしだけひらいて、笑みをつくる。くすんだ緑の軍服の襟の上には無精ひげを生やした顎があり、襟の階級章はすこし斜めになっている。  胸が熱くなった。まったくあいかわらずだ、少佐と来たら。根っからの軍人のくせに身支度が苦手なのだ。どうして誰も世話をしてやらない? 「少佐、どうしてこんなところにいるんです」 (おまえこそどこにいた。探したじゃないか)  ファーカルの声が霧の中でこだまする。なぜか僕の頭の中は一気に時を遡り、今がいつでここがどこなのかを思い出していた。  そう、僕らの部隊は夜中になってやっと湿地帯の奥にある古い砦にたどりついたところだった。ようやく安全を確保して、僕は倉庫に備蓄食を探しに行ったのだ。砦は思ったより広く、霧も出て迷ってしまい、遅くなった。 「すみません。でも、今戻りました。ファーカル、他の仲間は?」  僕はファーカルのすぐ前まで階段をのぼった。無意識に上官がまっすぐ立っていることを確認する。ファーカルの部隊はハリフナードルの奇跡だ。敵兵が去ったあとの爆弾処理を一手に引き受け、後続の部隊や戻ってきた人々に道をひらく。  だがファーカルの隊員は失うものも多かった。僕が彼らの手足を生成し、失くした腕が戻っても、戦場に戻れる者は多くない。恐怖心がまさって動けなくなる。  でもファーカルはちがった。彼が奇跡の英雄と呼ばれるのは、何度手足を失くしても戦場に戻ってくるからだ。 (オスカー)  ファーカルがじっと僕をみつめている。 (俺がいなくなったあとどうしていた? 大丈夫だったか? イグニンは約束を守ったか? おまえを退役させて、ギドレフに送るよう頼んでいたが) 「……え?」  僕はまばたきする。 「何をいってるんですか、少佐。あなたはここにいるじゃありませんか。ギドレフって――」 (俺の故郷だ。俺が死んだらおまえをギドレフに向かわせる。そんな手はずになっていた。海陸民の魔法技師を戦地にいさせるわけにはいかない) 「まさか。あなたは死んでなんかいない」  と、そのとき目の前でファーカルの体が爆散した。僕はもう螺旋階段の上にいなかった。灰色の壁が周囲にあり、僕は寝台に横たわっている。  起き上がろうにもだるくて動けない。首を何とかもちあげると僕はひどい格好をしている。ずたずたになった薄物に、粘液がこびりついた肌――そうだった、と僕は思い出し、横たわったまま目を閉じる。  昨夜はイグニン大佐に謀られて宴席で慰みものにされたのだ。ファーカルが死んで営倉送りになったあと、僕はずっと誰かの慰みものになっていた。でも昨夜がいちばんひどかった。もっとひどくなるにちがいない。このまま軍を抜け出せなかったら、そのうち―― (気がついたな)  ふいに冷たい声が響き、僕はハッとして目をあける。すぐ上に顔があった。いや、仮面だ。灰色の仮面にあいた二つの穴から冷たい光を放つ眸が僕をみている。 (オスカー・ハクスター。おまえの身柄は神殿が預かった) 「神殿? イグニン大佐は」 (イグニンは愚か者だ。生成魔法の意味を知らぬ。私はレリアンハウカー。噂くらいは聞いたことがあるだろう)  声の響きも、聞こえた名前も恐ろしかった。レリアンハウカーはハリフナードル神殿の上級神官で、軍の高官も恐れている。そもそもハリフナードルの神は恐ろしい。僕が生まれた島の神のように生命を寿ぐのではなく、地の底の暗黒に根をもち、死者を力とする神だ。  世界がまたくるりと回った。僕は石の床にひざまずいている。灰色の仮面をつけたレリアンハウカーが僕の前にこぶしをつきだし、ひらく。 (おまえの道具だ)  いったい何をさせられるのかわからないまま、僕はレリアンハウカーの手から魔法珠を取り戻し、握りしめる。左右に下位の神官があらわれて僕を立たせ、前に歩かせる。  神官たちは僕が着せられているのと同じ白い衣を着て、頭をきれいに剃っている。目の周囲だけを隠す仮面のおかげでほとんど見分けがつかない。  僕は髪を垂らしたままだ。イグニン大佐のもとにいたあいだはろくに伸びなかったのだが、神殿へ連れてこられて数日で魔力が急激に回復し、以前と同じ長さに戻ってしまった。僕は髪を隠したかったが、神官たちは許さなかった。レリアンハウカーは海陸民の魔法技師についてよく知っているらしい。僕の髪が数日で伸びても驚いたそぶりもなかった。  目の前でぶあつい扉がひらく。内部はまるで営倉のようで、小さな房に分けられていた。異臭が鼻についた。戦場でおなじみの匂い、死に瀕した人間たちのはなつ匂いだ。  ふいに左右で声が湧いた。神官たちがハリフナードルの神にささげる祈りの言葉を唱えはじめたのだ。彼らは僕を房のひとつに引き立てていった。戸の前に僕を立たせ、そのあいだも祈りをとめない。石の戸がゆっくりひきあけられる。  異臭が強くなった。  でも小さな房のなかにいた者は瀕死の床についてはいなかった。下穿き以外は裸の男で、顔を覆う白い仮面をつけている。神官のひとりが僕を中に押しやった。そのとたん、白い仮面の男が僕に飛びかかってきた。  死体も同様の臭いをはなちながらも、生きている人間にも出せないような力で、僕は床に引き倒された。男が上にのしかかると同時に魔法珠が反応した。何色だったのかもわからない。切れ切れになった男の経脈と僕の経脈がつながり、魔力が抗えない海流のように男の方へ流れていく。  気が遠くなりそうな意識の片隅に神官の唱える祈りの言葉――僕には意味のわからない、ハリフナードルの神に捧げる言葉が響いた。僕の上で男が咆哮をあげた。びりっと衣が破られて、魔力だけでなく僕の中まで暴かれるのがわかったが、魔法珠は僕と男をいやおうなく繋いでいる。僕はただ貪られるだけだ。腐臭を発していた男の体がもとに戻るまで――僕はこのまま――  ――気づくとまた神殿のどこかの部屋で寝台に横たわっていた。灰色の仮面がみえる。レリアンハウカーが僕を見下ろす。 (我らの役に立つことを喜べ。おまえたち海陸民の魔法はハリフナードルの神に捧げられるものだ。手足を呼び戻す程度のことに浪費できぬ)  レリアンハウカーが消えると下位の神官たちがやってくる。彼らはまるで道具を手入れするように僕の世話をする。僕の髪が十分に伸びるまで待ち、またもあの房に連れて行く。  死人も同然なのになぜか動くことのできる、白い仮面の男たちは何人もいて、彼らはハリフナードルの暗黒に根をもつ魔法で生かされているのだった。僕の魔力を貪ると普通の人間らしくみえるようになるが、人間らしい心はどこにもない。彼らは神殿の意のままに動く傀儡として、ハリフナードルのさまざまなところに――たとえば軍の最高幹部に――紛れこんでいく。 (オスカー! オスカー!)  声が聞こえる。僕は目をあける――あたりは真っ白だ。霧に覆われて、僕は今がいつなのか、自分がどこにいるのかわからなくなる。さっきのあれは夢だったのか。それともこれが夢なのか。 (オスカー、起きろ。俺を置いていく気か?)  僕は飛び起き、そのとたん誰かに正面から抱えられる。 (俺の魔法技師。俺のお守り)  ファーカルがささやいた。頭を撫でられ、髪をかきまわされる。僕は心地よさにうっとりする。どうして僕はファーカルが死んだと思っていたんだろう。彼は生きているじゃないか。腕も足もある。 「変な夢をみていたんです、少佐。あなたが死ぬはずないのに」 (いきなり何をいいだすんだ、オスカー) 「僕はあなたのお守りだ。だから僕が生きているあいだはあなたは死なない。そうでしょう?」 (そうだな)  ファーカルが笑った。僕は彼の顎に頬を押し当てる。ざらざらして痛いのに、気持ちがいいと感じてしまうのは不思議だ。僕は背中に回した腕に力をこめる。唇をずらしてファーカルの口に重ねる。ファーカルは応えてくれる。口づけをしながら僕は幸せな気持ちでいっぱいになる。生まれた島はもうないが、僕はファーカルに出会えたのだ。ファーカルがいれば僕は大丈夫だ。僕は――  そのときファーカルがいった。 (オスカー、これは何だ?)  彼は僕の喉に指をすべらせ、首にかかった鎖をまさぐる。僕は自分の胸元をみおろす。ファーカルの指先で金属のペンダントが揺れる。 「これは誓印の」  そういったとたんペンダントからにゅるりと金色の蔓がのびた。蛇の頭のような先端をファーカルがつかもうとしたが、蔓は器用に逃れてするするとのび、襟から服の中へすべりこんでいく。素肌に触れる感触に僕はあわてて服の前をひらいた。黒く丸い痣に覆われた左胸の尖りに金色の蔓――いや、蛇が吸いついている。 「うわっ」  ぞっとしてやみくもに蛇を追い払おうとしたとき、頭の中に声が響いた。ファーカルの声ではなかった。 (よ、周りを見ろ。墜ちるぞ)

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