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第3部 レムリーの至宝 24.ザック:光の梯子

 ザックの周囲では白い靄が渦を巻いている。靄を透かして螺旋階段が上方へ伸び、そこに立った女人の眸はザック同じ濃く暗い色だった。顔をとりまく純白の髪は靄に溶けこむようにぼうっと広がっている。時間がひきのばされたように、ひどくゆっくりした動きで右手があがる。 (ネイン、やめるんだ。そのナイフを捨てろ!)  ザックの前に立ちふさがったグレスダ王の声をものともせず、銀の刃が宙にきらめく。王の顔はザックの記憶にあるよりずっと若かった。一方、女人の顔の柔和な輪郭や目鼻立ちは王とあまり重ならず、わずかに目元の雰囲気が似ていると思わせるほど、あとは髪の色にユグリアの古い血統を感じられるだけだ。  王の腕がナイフをはじきとばそうと前に出た。しかし銀の刃は手首の隙間をすりぬけてザックの顔の寸前に迫った。 (ネイン、この子に罪はない! 俺とおまえにもだ。これは何らかの……神の意志だ。運命の神の――俺たちはお互いが何者か、知らなかったのだから!)  王が叫んだ。だがザックは何の痛みも感じなかった。刃が傷つけたのはここにいるザックではなく、王が腕に抱えこんでいる布のかたまりだ。  女人はひとことも口をきかなかった。グレスダ王は彼女からナイフをとりあげ、横を向いて、ザックには見えない誰かに向けて口を動かしている。周囲ではあいかわらず渦を巻く靄がたちこめていたが、グレスダ王は女人の背に手をあて、ザックをふりむいた。 (ネインは私にまかせろ。赤子を頼む)  しかし王の目も言葉もザックにむけられたものではなかった。見えない誰かが返事をしたように王はうなずき、女人の背をうながすように押した。濃くなった霞の中にふたりの姿が消えていく。ハッとしてザックは体を震わせた。今度こそ完全に、自分の体以外はなにひとつみえない白い闇に取り囲まれている。  これは夢か? それとも本当に起きた出来事なのか?  みずからに問いかけてみたものの、形ばかりのものにすぎなかった。自分と同じ色の髪と眸をした女人がおのれの生母だと、とっくに確信していたからだ。そればかりか物心ついたときすでにひたいにあった傷痕の意味まで理解していたのに、自分でも不思議なほど何の感慨も浮かばなかった。  だが、生みの母が自分を望んでいなかったという事実は腹の底におち、この先もけっして消えないとわかった。  ひたいの傷痕は幼い頃はもっとはっきりしていた。今はかなり薄くなり、白く光っているだけだ。両親には赤ん坊のころ燭台が倒れてついた傷だと教えられ、ザックは疑ったこともなかった。少年のときは、この傷痕はいずれ王の騎士になったときに受ける名誉の負傷を先取りしているのだと思いこもうとしたこともある。冒険者になると決めたときザックはふとそのことを思い出し、子供が考えそうな幻想だと思ったものだった。  そう、俺は騎士になってグレスダ王に仕えるはずだった。だが王は死んだ。俺はいったい何のために生きているのか?  そんな思いが頭をよぎったとたん、周囲の靄がもっと濃くなった。ザックは首をめぐらし、さらに上へ視線を向けた。あたりの光景は一変していた。ザックがここまで登ってきた螺旋階段――靄のあいだにみえかくれしていた金色は消え失せ、巨大な壁がそびえたっている。白く堅く、手がかりのみえないつるつるとした壁だ。  ザックは右の手のひらで壁に触れ――ぎょっとして手をひっこめた。内側にボムがぎっしり詰まっている。どこに杭を打ち込もうが爆発は避けられない。先へ進みたいなら別のポイントを探さなければ。上をみても左右をみても、壁はどこまで続いているのかもわからないほど巨大だ。  そもそも俺はなぜ、この壁を越えようとしていたのか? 先にどれほどの宝が隠されているとしても、グレスダ王はもういないのだ。  ザックは首を振り、壁から顔をそむけ、ふりむき――ぎょっとして目を見開いた。  巨大な蛇がとぐろをまき、金色の鎌首をもたげてザックをみおろしていたのだ。胴体は一匹なのに、頭は四つあった。四つの赤く長い舌がチロチロとのびる。白い靄のなかに声が響きわたった。 「継承者よ、おまえは都の管理者なのだぞ。防壁の罠にひっかかってどうする」  驚きに息を飲んだザックの前で蛇の首がシュッと下がったと思うと、胴体が人の姿に変わりはじめる。金のまだらに覆われた巨躯の背に翼がひらき、羽ばたくと同時に白い靄が晴れていく。まじまじとみつめるザックの前に巨人は頭をかがめた。腕は二本、足は二本だが、ぶるっと振られた頭部は四面に顔がついている。しかめつらでザックを睨んでいた首がありえない方向に――水平にすばやく回転して、反対側にあった顔がザックに向く。 「落ちつけ、継承者。おまえもそう怒るな。管理者の一族はあまりに長いあいだ離れていたから思い出せていないのだ」  首がまたシュッと回る。四つの顔はザックに語りかけると同時に他の顔にも話しかけている。 「さっさと都へ入らないと鍵開けが面倒になるぞ」 「呼び鈴を鳴らせ、門番に知らせるんだ」 「面倒だ。我らで連れて行こう」  最後の一言がおわる前にザックは高く持ち上げられていた。翼ある巨人は片腕でザックを抱えて飛び上がったのだ。思わず足をばたつかせると、巨人はザックの腰を座らせるように抱きかかえ、同時にパタリ、パタリと翼をはためかせる。  靄が消えていくと同時に巨大な壁が透明に変わって、いまザックのまえにあるのは巨大な金色の球体だった。愕然として目をこらしたとたん、今度は耳をつんざく鐘の音がくりかえし響きはじめる。 「さあ、都へ行こうぞ」  翼をもつ蛇の巨人がいった。最初にしかめつらで文句をいった声だ。巨大な金色の球体にぽかりと丸い穴が開いた。巨人はその穴に向かって翼をはためかせている。球体が巨大だからか、穴の大きさも、球体までの距離もつかみがたかったが、突然ザックの心には理由なき確信があふれた。  あれがレムリーだ。あれこそがこの迷宮の宝、ユグリア王の血統が代々引き受けてきたもの。  グレスダとネインの子である俺には、ユグリア王家の誰よりもあれに達する資格がある。  ところが同時に何かを忘れているような気もして、ザックはもう一度真下をみつめ――同時に大声を出していた。 「行くな! 戻れ!」  上から巨人の声が降ってきた。気分を害されたといった調子だった。 「何をいいだすのだ、継承者よ。門はすぐそこなのに」 「仲間がまだあそこにいる!」  足元にぽかりと黒い穴がひらいていた。その縁ぎりぎりのところに小さな人影がいくつも立っている。そうだ、俺はひとりでここまで来たのではなかった、とザックは思い出した。いや、たった今まで忘れていたのが信じられないくらいだった。俺は隊長なのだ。ダリウス王の探索隊を率いてここまで来た。黒い穴に今にも落ちそうな足取りでふらついている人影がどんな状態なのか、ザックは一瞬で理解した。彼らもさっきの自分のように幻影をみているのだ。 「どうしたのだ。都へ行くのはおまえだけで十分」 「あまりにも長く怠ったおかげで、継承者の一族はすっかり忘れてしまったようだな」 「仕方あるまい、使役人も変化するほど長い時が過ぎたのだ。われらも長く血のなかで眠りについていたからな」 「まったくだ。使役人どもときたら、労役も忘れて手前勝手に殖えている」  ところが頭の上では巨人の四つの顔が呑気な会話をくりかえしている。激しい怒りが沸き上がって、ザックは巨人の腕の中で怒鳴った。 「いったい何の話をしているんだ? 戻れと俺は命じたぞ!」  四つの声がぱっとやんだ。ザックは真下に向かって叫んだ。 「みんな、そこを離れろ! 正気に戻れ! 墜ちるぞ!」  鐘の音はまだ鳴り響いている。風船から空気が抜けるようなシューッという音が響いて、また声が降ってきた。今度はなだめるような口調だった。 「継承者よ、戻らなくていい。おまえのスキルヤを引っ張り上げろ」  小さな影が一度だけ金色にまたたき、かすかに名を呼ぶ声が聞こえた。 (ザック)  オスカーがそこにいるのだ。ザックは右手を宙に伸ばした。五本の指先から金色のロープが繰り出された。空中でからみあい、縄をない、縄がさらに縦に横にと組み合わされて、光る縄梯子となってすべりおちる。 「オスカー! 他のみんなも、登れ!」  ザックは右手を宙にさしだしたまま叫んだ。これが現実なのか、どうしてこんなことがあり得るのかなど、考える余裕もない。しかし自分が投げた光の梯子をつかんだ者の名は全員わかった。オスカーを先頭に、ノラやサニー、トバイアス、あそこにいた迷宮探索隊の者たちが梯子にぶら下がっている。  ザックは縄梯子をたぐり寄せようと念じ、すると梯子はすこしずつ上へと巻き上がりはじめた。そのあいだにザック自身の体もふわりと浮き上がるように感じたが、光る梯子に掴まっている者たちを見守るのに必死で、巨人の翼が向かう先を眺める余裕はなかった。やがてオスカーの鳶色の髪がみえた。手に金色の蔦がまきついている。 「継承者よ、門を通るぞ」  巨人が大きく羽ばたき、ザックが垂らした光の梯子ごと、すぐ前に迫ってきた巨大な輪をくぐりぬけた。そのとたん、バチッと跳ね返すような感覚とともに強烈な閃光がまたたいた。ザックは反射的に光を避けて目を閉じたが、同時に自分を支えていた巨人の腕が消えたのを感じた。ところが今度は、足裏に地面の感触がある。  ザックはそっと目をひらいた。  視界に青色が飛び込んできた。  ザックは壮麗な広場に立っていた。足元にはマラントハールの宮殿のモザイクに似た青いタイルが敷き詰められている。自分を取り囲むように彫像がいくつも立ち、広場の外側は高く巨大な建造物に囲まれている。  ザックは何気なく手近の彫像に近づき、思わず息を飲んだ。その像はトバイアスの顔をしていた。  ふりむくとその斜め後ろにあるのはマリガンの像で、反対側に立つのはサニー・リンゼイだ。ザックの手から伸びた光る梯子に掴まっていた者たち、全員の像がある。  ――まさか。 「ザック!」  叫び声が響いた。オスカーの鳶色の髪が腕の中に飛びこんでくる。ザックは息を吐き、伴侶の体を抱きしめた。 「ザック――ザック、よかった、おまえが……いて……」  オスカーはザックの胸に顔を押しつけて泣きじゃくっている。ほっとしたのもつかの間、ザックはまたぎょっとすることになった。指の太さほどの金色の蛇がオスカーの背をつたい、ザックの顔のすぐそばで頭をもたげたからだ。  翼の巨人と同じように、今度も頭は四つあった。そのうちのひとつがシュッと赤い舌を出す。 「管理者よ、久方ぶりのレムリーの都はどうだ」 「都? 都とはいったい……どういうことだ……いや、それより」  ザックはオスカーを抱きしめたまま蛇をにらみつけた。 「あの彫像はなんだ。他の者は」 「門番の処置だ」  蛇はそっけなくいった。 「本来なら彼らは入れない。継承者の紋章がないのだ。なに、一時的に停止されているだけだ。ここから奥へ連れて行くことはできないが、おまえの目と耳を同期させることはできる。この先にあるものをみせたいのなら」 「オスカーはなぜ大丈夫なんだ?」  オスカーは泣き止んだものの、まだしゃくりあげて、ザックに背中をさすられるままになっている。いったい何があったのだろうとザックは考え、白い靄の中でみたものを思い出した。オスカーも辛い幻影をみせられたのだろうか。  しかし蛇はザックやオスカーの思いなど何の興味もないらしかった。こともなげにいった。 「その者は胸の珠に残った我らの尾によっておまえに結びついているからな。門番の権限が及ばない。さて、用意はできたか?」 「用意?」  いまだ蛇の話を理解できないまま、ザックはオウム返しにたずねた。 「この広場を出る用意だ。都の住民が待っている」  蛇はこともなげに答えると、するするとオスカーの背を超えて、ザックの肩に乗り移った。

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