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第3部 レムリーの至宝 27.オスカー:魂の詐術を破る

 ドクタニアのような男に僕はギドレフで会ったことがある。  ギドレフはハリフナードルの西の町で、ファーカルの故郷だった。祭日の休暇中に行くところがないといったら、ファーカルは親兄弟が暮らす大きな家に僕も連れて帰ることにしたのだった。到着してからわかったが、ファーカルの生家はギドレフでは名が知られていて、祭日のあいだは客が毎日訪れていた。ファーカルは家族や訪れる人々に僕を部下ではなく友人として紹介し、僕はこんなことでもなければ絶対に会わないような人々と同じテーブルについた。  ハリフナードルでは軍人は尊重されるのが建前だ。だが僕が海陸民の魔法技師だとわかったとたん、自分のために働くものと決めてかかる者もいた。そういう輩は丁寧な言葉づかいの裏に蔑みを隠しているものだ。ドクタニアの態度は彼らによく似ていて、ザックと僕は彼ら、レムリーの昇華人のために存在している道具にすぎないが、たまたま他にいないせいでぞんざいな扱いもできない、といった雰囲気もそっくりだった。  体がなくてもすべてを経験できるとか、生死を超えたとかいったところで、ドクタニアは僕の知っている人間と変わりない。もっとも彼が僕とザックをこの場所――透明な柱の立つ部屋にほうりこみ、すぐに立ち去ってしまったのは気になった。ここに長居したくなさそうだと感じたのだ。  実際にレムリーの住人が何を恐れていたのかはわからない。だが、それからまもなくあらわれたものをみたとたん、僕もここを逃げ出したくなった。  稲妻のようにまたたく光のあとに灰色の影があらわれ、柱の周囲で不気味に揺れている。柱を囲んで立つ灰色の影がゆらりと動いた。目を背けられなかったことを即座に後悔した。灰色の濃淡の中にみえたのはなかば溶けた顔の残骸に、ありえない角度で垂れた手や肩―― 「父上?」  ザックが叫んだ。その視線は灰色の亡霊たちを食い入るようにみつめていたが、悲鳴のように響いた声の先にいる男だけは灰色の影に覆われていなかった。僕はまばたきした。ロイランド卿。ザックの父親は王様に召喚されたあと、解放されても目覚めることなく、僕らが迷宮探索に出発した時も寝台で眠り続けていたはずだ。  ロイランド卿はやつれていたが、灰色の亡霊たちのように崩れてはいなかった。ザックは座ったまま右手を伸ばした。震える指先がロイランド卿の方へ差し出されたとき、灰色の影から不気味な唸り声がわきあがった。 『レムリー……我らの義務……』  ハリフナードルの神殿にいた腐臭をはなつ者たちと同じ、いや、もっと不気味な合唱が響きわたる。僕は耳を塞ぎかけたが、手をあげたまさにそのとき、かぶさるように別の声がいった。 「落ちつけ継承者」 「それは残像だ」 「死に瀕して、我を次の者に渡したときに残った思念の影」 「おまえがレ=エレスヌルカをの力に引き寄せられてきただけだ」  喋ったのはザックの肩に乗った四つ頭の蛇だ。ばらばらな方向を向いているが、四つの口が同時にひらいている。とたんにザックが立ち上がり、腕をふりあげて蛇を肩から払いおとした。蛇は床にはらりと落ちたが、何のダメージも受けていなかった。すぐさまザックが座る椅子の背によじのぼって口をひらく。 「この者どもはここへ来るべきだったのだ」 「それがユグリアの血の意味」 「残像になっては役に立たん」  ザックが怒鳴った。 「父上はマラントハールの屋敷で眠っている! 死んではいない!」  僕はザックのそばに寄りたかったが、灰色の亡霊たちが恐ろしかった。ザックはロイランド卿に右手を伸ばした。亡霊たちの不気味な唱和はくりかえし響いているが、ロイランド卿の顔は硬直している。ザックの指がその体をつきぬける。  びくりと手を引いたザックの背後で、蛇がいった。 「その者は残像ではない。騒がしいな、静まれ」  切れ切れに義務、と繰り返していた亡霊の唱和が急に止まった。僕はロイランド卿の唇が上下に動くのをみたが、声は聞こえない。 「父上、なんといって……」  ザックは真剣な顔で父親の顔をみつめた。 「わたしは――へいかのまほう……しんもんを……うけ……」ロイランド卿の唇を読んでいるのだと僕は気づいた。「……ここにとらわれ……父上! まさか……」  ザックは呆然とした表情になった。 「まさか、陛下の宮殿にあった機械がここにつながっているのですか? 父上の体はマラントハールの屋敷にあります。今はもう王の機械の中にはいない。目を覚ませばいいだけだ。父上……」  ロイランド卿にザックの声は聞こえているのだろうか。ザックは腕をつきだしたが、拳は空を切ってロイランド卿をすりぬけた。勢いでザックの腰がどすんと椅子におちる。その肩にまたするすると蛇が乗った。僕は顔をしかめたが、蛇は僕のことなど見向きもしない。 「継承者よ、腕輪を嵌めろ」 「腕輪?」 「目の前にあるだろう。管理者はそれで都の永遠を守る」  またも稲妻が柱の中できらめいた。あまりにも眩しい光に僕はぎゅっと目をつぶる。目をあけたとき、透明な柱の中で柔らかい黄色の光が輝いていた。丸い輪が浮いている。 「取れ」  ザックは魅せられたように輪をみつめていたが、そっと右手を近づけた。どんな仕掛けが働いたのか、磁石に鉄がくっつくように輪がザックに引き寄せられる――と思った次の一瞬、右手首に腕輪が嵌っていた。  ザックの手は透明な柱を触っていた。腕輪を嵌めた右手が柱を撫でたとき、柱の内部にくねくねと光る線が浮かび上がった。  金の糸と青、赤の点。これらがもつれてからみあい、柱を満たすように広がる。糸の源はは柱の根元に溜まった、淡い金色の雲から伸びている。  また、魔法だ。僕には原理も正体もわからないユグリアの古代魔法。いささかうんざりしてきたが、この柱にあらわれた模様にはどこか見覚えがある――と、考えてすぐ気づいた。これはザックが「転移制御室」と呼んだ迷宮の中の魔法装置と同じ種類のものだ。  ザックはひと目みただけでわかったのだろう。というのも、僕がみつめているあいだにもザックの手はてきぱきと動いたからだ。それは何をするべきか完全に理解している人間の手つきだった。 「そうだ、必要なことは腕輪が教える」と蛇がいった。  ザックが手を動かすにつれて、柱の内部のもつれあう糸が一度ほどけ、交差していく。同時に、柱の外でふらふらしていた灰色の亡霊の姿が薄れていく。残ったのはロイランド卿ひとりだ。途方にくれた目がザックをみつめている。  亡霊がいなくなったので、僕はやっと足を踏み出す勇気をもてた。ザックはロイランド卿も僕もみていなかった。指が柱の表面を飛び跳ね、叩いたりこすったりするたびに、柱の内部に形が生まれていく。それは小さな都市の模型だった。金色の線は力を運び、赤と青の点がぴかぴかと点滅している。ザックの指が動くと金色の線は孤立した赤と青の点をむすび、すると光の線で描かれた都市はひとまわり大きくなった。ザックの指がふと止まった。 「どうした?」  僕はそっと訊ねた。 「だめだ」ザックはつぶやいた。「ここで魔法が死んでいる」  僕はザックの視線を追い、赤と青の点のあいだに黒く染まった部分があるのに気づいた。 「力が途切れる」  ザックはさらにつぶやいたが、ひとりごとのようだった。僕がそばにいるのも気づいていない。 「力の源に裂け目がある。ここは……リヴーレズの谷だ。そうか、レムリーの力の根源はジェム……まて、この流れをひらくと――」  ザックは柱を抱くように大きく両腕をひらいた。ひたいが柱に押し当てられたとき、ぱっと金色の光が柱の内側を満たした。その瞬間、何かが変わったという気がした。僕は思わず声をあげた。 「ザック、ロイランド卿が消えた!」  いったい僕の声はザックに聞こえたのだろうか。ザックはひたいを柱に押しつけたままさらに手を動かしていた。眸は柱の内部をみつめていて、唇はかすかに動いていた。僕はザックの肩に触れようと手を伸ばし――ぎょっとして叫んだ。 「ザック、腕輪が!」  右手首に嵌めた金の腕輪が溶けて膜のようにのびひろがり、いつのまにかザックの腕全体を覆っている。いや、僕がみつめているあいだにもそれは鎧のようにザックの肩を覆い、腰から下に広がって、さらにザックが座る椅子ごと金色に塗り固めていく。まるで柱に一体化した彫像をつくるように。  なんてこった。ザックが取り込まれてしまう。僕はザックの腕をつかんだ。椅子から引き剥がすつもりだった。手首に手首を重ねたとき、頭の中で亡霊の声が響いた。 (レ=エレスヌルカの玉座を満たせ……レムリーを永遠に保て……我らの義務……) 「そうだとも」  ザックが亡霊の声にこたえるようにつぶやいた。 「これこそユグリアの血の義務。俺がグレスダとネインのあいだに生まれたのも、このための宿命……」  いったいザックはどうしたんだ。冗談じゃない。 「ザック!」僕は叫んだ。 「しっかりしろ! 何をトンチキなことをいってるんだ? 僕らはダリウス王のためにここへ来たんだ。迷宮の宝を持ち帰るんだろう? こんなところに閉じこめられて魔法に使われるためじゃない! ドクタニアのようなやつらのためじゃない! 僕の声が聞こえないのか?」  ちくしょう、これは何かの罠だ。  突然ハリフナードルの神殿で起きたことが僕の脳裏によみがえった。レリアンハウカーも魔法で永遠を手に入れようとしていた。この都もあそこと同じだ。金色の光やきれいな外見で飾っても、肝心なことを認めようとしない。  あらゆるひとは死ぬものだ。ファーカルは戻ってこない。 「ザック! 僕をみろ!」  僕はザックの腕を柱から引き剥がそうとしたが、うまくいかない。すでにザックの肩の上まで腕輪の金色に覆われている。僕は両手でザックの首をつかみ、皮膚をさぐった。指が勝手に経脈を探す。すると左胸がどくんと疼いた。僕のなかの闇珠がザックに反応したのだ。  僕は両手に力をこめた。ザックを絞め殺すような勢いで――実際、強く締めれば締めるほどザックを覆う金色が減っていく。僕は夢中でザックの首を締めつけた。 「おまえは僕と帰るんだ。ディーレレインに」  ザックの体が大きく上下した。僕は跳ね上がった足に蹴り飛ばされそうになったが、踏みとどまった。ザックが僕の目をみている。 「……オ……ス、カー……」 「ザック、しっかりしろ。ここの魔法に取り込まれるぞ」 「あ、ああ……俺は何を……していた?」 「腕輪を外すんだ」  僕はザックを立ち上がらせた。いつのまにか腕輪は元に戻って、ザックを縛りつけていた金色の膜は消えている。僕は腕輪をつかみ、一気に引き抜いた。焼けるような痛みとともに手から煙があがる。肉の焦げる匂いがする。  変だ。ドクタニアの話が正しいのなら、この場所にいるのは僕らの心だけのはず。どうして匂いを嗅いだり、痛みを感じたりするんだろう。心がそう思っているから? 「オスカー!」  ザックの声がふわんふわん、とぶれて響く。僕は落ちついていた。煙で自分の手がみえないが、腕輪がそこにあることはわかった。 「この腕輪は危険だ。僕が持ってる」  僕は自分の手首に腕輪を嵌めた。

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