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終章 ユグリア王の魔法技師 1.生の分け前

   *  僕は細長い袋におしこめられている。袋は僕の体をぴっちり包んでいて、肘と指、つま先を多少動かせる程度のゆとりしかない。  暗闇にぽつんとあいた針の穴ほどの白い点線は袋にあけた隙間だ。ろくに呼吸もできないのに悪臭はしっかり鼻に届く。僕は自分の内側に意識を集中する。今の僕は新鮮な死体だ。僕を運んでいる兵士たちは、死体が動くこともあると知っている。死後硬直の前、あるいは腐食中に、死体がずりりと動くのはよくあることだ。今の僕は神殿が用済みにした死体。袋が前後左右に揺れ、僕は息をひそめる。運搬の兵士は気づいていない。着ているブーツと警備隊の制服はカーソンが手に入れてくれた。彼はレリアンハウカーを個人的に恨んでいたし、僕は彼の犬を助けたからだ。レリアンハウカーは首都で行われている部族会議に出かけて、終わるまで戻ってこない。半数の神官が同行したのもあって、兵士たちはいつもより緊張感に欠ける。僕が生きていることにも気づかないはず。  掛け声とともに袋ごと激しく揺さぶられる。完全な暗黒が僕を包む。僕は墜ちていく。どこまでも。  いったいいつまで墜ちるのだろう。体に巻きついていたものが消えていった。僕は自由になった足で暗闇に着地する。  ここはどこだ?  僕はまだ生きているのだろうか。もし僕が死んだのなら、海陸民の魔法技師のターバンに僕の髪を編みこんでもらわなくては。  僕の生の分け前はまだ残っているだろうか。僕はなんとか生きのびてきた。故郷の島が沈んだとき、師匠とはぐれたとき、ファーカルが死んだとき、ハリフナードルから逃げ出したとき……。 (オスカー)  呼ぶ声が聞こえた。僕は首をめぐらす。遠くから星が降ってきて、僕の周囲に降りつもる。    * 「オスカー!」  最初にみえたのはルッカの顔だった。 「オスカーが気がついた!」  ルッカはふりむいて叫び、またすぐ僕の方へ顔を向けた。 「見える?」  指を立てて振ったから、僕は「二本」と答えた。体を起こそうとすると左肩から背中にかけて痛みが走った。寝巻のような服の下に包帯がぐるぐる巻かれている。 「どうしてルッカが――」 「オスカーはうちにいるんだ。待ってて、親父を呼んでくる」  顔の横に水差しがあった。僕はひじをつき、ゆっくり体を起こした。周囲の壁はディーレレインの岩壁で、ジェムの黄色い光があたたかく照らしている。見覚えがある部屋だと思ったのは当然で、僕がはじめてディーレレインに来たとき、しばらく世話になったガイドの家だ。  それにしてもいつディーレレインに戻ってきたのだろう。まったく思い出せない。水差しの中身をコップに注ごうと格闘していると、戸口にルッカの親父さんの頭と、その背後にひょろりとした長身がみえた。 「オスカー! 起きたな」 「親父さん、リロイ?」  ルッカの親父さんに続いて入ってきたのは空中庭園の画家のリロイだった。 「どうしてまた――いや、僕はどうしてここにいるんだ?」 「ヤオ先生に診てもらったんだが、ザックが診療所もギルドも危ないというので、うちに泊めることにしたんだ。リロイにはマラントハールとの連絡を手伝ってもらってる」  親父さんは穏やかな声でいったが、画家は僕を鋭い目つきでみている。 「なかなか目を覚まさないので心配したよ、オスカー。気づいているか? 髪が……」  そういわれてはじめて、頭が軽いことに気づいた。僕は自分の頭に手をやり、髪の長さをたしかめる。耳の下くらいしか残っていない。 「これは……大丈夫だ。海陸民の体質なんだ」  髪のことはあまり話したくなかった。僕は一瞬迷ったが、ふたりを心配させたくなかったから、そのまま続けた。 「極端に魔力を失くした時、髪に溜めた魔力で眠っているあいだに回復できるんだ。迷宮で魔法珠をひとつ壊されたから、たぶんそのせいだ」  リロイの目がほっとしたように和らいだ。髪よりも肩の痛みがうっとうしかった。魔力は眠れば戻るが、傷は癒せない。 「ヤオ先生もそうじゃないかといったんだ。魔力の調整をしているのだろうと。気分は?」 「悪くない。肩と背中が痛むだけで」答えたとたんに腹がぐうっと鳴る。「……腹は減ってる」 「オスカーらしいじゃないか」 「まったくだ」  僕を見下ろしたふたりのの口元がニヤッとほころんだ。 「食べられそうか?」 「ああ。お腹がぺこぺこだ。はじめてディーレレインに来た時みたいだ」 「それはよかった。ヤオ医師に手当てされている時のきみの顔色はひどかったよ。驚かさないでほしいものだ」  リロイの口調は小言じみていた。僕はコップの水を口に含む。乾いた唇と喉がうるおされてほっとしたせいか、また盛大に腹が鳴った。用足しに寝台を下りようとすると足が盛大にふらつく。  なんとかひとりですませて戻ってくると、おかみさんが湯気の立つ椀を運んでくれていた。僕はテーブルに座りたかったが、寝台に戻れとリロイに怒られてしまった。親父さんが苦笑いした。 「ザックは飛行艇で一緒にマラントハールに戻りたがっていたが、ヤオ先生が自力で動けるようになるまではディーレレインから動かすなといったんだ。オスカー、三日も眠っていたんだぞ」 「三日も?」  僕はうわの空で返事をする。椀の中身は麦粥だ。僕が勝手にディーレレイン名物と決めつけている朝飯の定番で、同じく僕の大好物のパズーの角煮をほぐしたものがまぶされている。おかみさんはほどよく冷ましてくれていた。ゆっくり食べなくてはだめだとわかっているのに、最初のひと匙を口に入れると止まらなくなる。 「オスカー、ヤオ先生を呼んでこよう。必要なことがあったらリロイか息子に頼んでくれ」  僕はスプーンを持ったままで、親父さんの言葉にあわてて首を振る。 「まさか。三日も面倒見てもらったのにそんなことはさせられないよ。診てもらったら自分の店に帰る。 迷宮ではいろいろなことがあったから……」  たぶん空腹が満たされたせいだろう。僕はやっと、迷宮の中でおきたもろもろの詳細と、自分の意識が途切れた原因を思い出した。それでもわからないことがたくさんある。僕を捕まえようとしたハリフナードルの兵士――間諜は死んだにちがいないが、謀反がどうとかいって襲ってきたカイン・リンゼイはどうなったんだ? それにダリウス王も……僕が最後に覚えているのは、王様(あるいはその幻)が金色の蛇につかまって昇っていくという、およそ非現実的な光景だった。  あれからどうなったのかわからないが、意識のない僕を運ぶのは大変だったはずだ。たとえ古代魔法の機械があっても、北迷宮のボムは厄介なのだから。 「王様は無事なのか? ザックも、ほかのみんなもマラントハールに戻ったのか?」  リロイが僕をなだめるように手を上下させた。親父さんがまた苦笑する。 「オスカー、落ちつけといっただろう。あとでゆっくり話すから、今はうちにいてくれ。次期ユグリア王に、迎えにくるまでオスカーを安全に預かると約束したからな」 「次期ユグリア王?」  問い返した僕の声はいささか裏返っていたが、親父さんは淡々とこたえた。 「ザックだ。グレスダ王に息子がいたとダリウス王が宣誓し、ザック・ロイランドを次期ユグリア王に指名したんだ。続きはリロイに話してもらえ。俺はヤオ先生のところへ行ってくる」  親父さんは慌ただしく出て行った。リロイは寝台の横から丸椅子を引っ張り出して腰かけた。 「私の聞いた話では、ダリウス王は宣誓のあと倒れたという話だ。病らしいが、亡くなってはいない。最近の王の怠慢さをヘイス・ラバルバや、ヘザラーンがつめようとしたところだったという。で、逆上した近衛騎士団の飛行艇がこっちにも飛んできた」 「それはまさか、戦争になる……とか?」  ハリフナードルで年がら年中起きていた戦乱を思って僕は首をすくめたが、リロイはゆるやかに首をふる。 「いや。ダリウス王が残した宣誓は正式なものだ。後継者に指名されたザックが貴族をまとめられれば、大きな争いにはならないだろう。ヘザラーンもザックを推しているし、ダリウス王に近かったリ=エアルシェも、今はザックについているともっぱらの噂だ。近衛騎士団が気に入らなくても禅譲は行われる。騎士団は再編成されるかもしれないが」 「……それならよかった」  僕はうなずき、その拍子に寝巻の下で鎖が揺れた。首をいじると誓印のペンダントはちゃんとそこにかかっていた。魔法珠の鎖はなかった。迷宮で落としたか、誰かが持って帰ってくれたのならいいが。  やっとディーレレインに戻れたが、こんな結末になるとは思わなかった。ザックが王様になるなら僕はどうすべきだろう?  答えは考えるまでもなく出た。僕は彼のスキルヤで、一緒にあの不思議な都、レムリーまで行ったのだ。ここでのんびり寝ている場合じゃない。マラントハールに行って、ザックの隣にいるべきだ。 「オスカー、あわてるな」  僕の考えを読んだようにリロイがいった。 「きみの伴侶はきみを忘れたりしない。早く肩の傷を治してその髪をもとに戻しなさい。ほら、ヤオ医師が来たぞ」 「わかってるさ」  僕は服の上から誓印をそっと押さえた。

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