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終章 ユグリア王の魔法技師 4.明日の約束

 どのくらい眠っていたのだろう。柔らかな上掛けをはねのけるとザックが寝台の頭にもたれて座っていた。手に持った紙の束を読んでいる。寝台のとばりはあげたままで、窓のない部屋はジェムでぼんやり照らされていた。  僕は一度はねのけた上掛けを首までひっぱりあげる。軽くふんわりした手触りで、冒険者ギルドの宿舎や野営中の毛布とは雲泥の差だ。ここは宮殿なのだ。  カサッと紙をめくる音が響いた。贅沢な寝具にくるまったまま、このまま寝ているふりをしてザックの邪魔をしないでいようと思ったが、髪を撫でられてまた目をあげる。ザックは紙束に視線を落としたままだ。 「ザック」呼ぶとハッとしたように僕をみた。 「それ、好きか?」 「何が?」 「僕の髪」 「……触られるのはいやか?」  うしろめたそうにつぶやいたので、僕は思わず笑った。 「いや。気持ちいい」 「そうか」 「どうせ撫でるのならきちんと撫でてくれ」 「……わかった」  ザックは紙をどこかへ押しやり、僕は彼の太腿に頭をのせる。ザックの指が髪を分けるのが心地よかった。 「オスカー、だるくないか?」 「なんで」 「……激しすぎたかと思った」  僕は上掛けの下でみじろぎした。そういえば体が清められている。 「そんなことはない――あっ」 「どうした?」  ザックが手をとめた。僕はまた上掛けをはねのける。左胸の黒い痣は元の位置に戻っていた。 「こいつは魔法珠――僕の闇珠だ」 「オスカー?」 「知ってるだろう、おまえの紋章の蛇のおかげで僕の闇珠は僕の中に……皮膚の下に入ってしまった。しかもどういうわけか、おまえが触るとコロコロ動き回って……」  だからあんなになったのだ。頬が熱くなり、僕は途中で説明をやめて起き上がった。上掛けをひっぱりあげると、ザックの肩にもたれかかる。 「いいさ。闇珠に反応する人間なんてそうそういないからな」  ふうっと息をつく。ザックがぼそっといった。 「オスカー、俺にはもう〈紋章〉はない」  ぎくりとして僕はザックをみた。 「――そうなのか?」 「あの蛇はたぶん、ダリウス王を案内してレムリーへ行った。おそらく今はあの都に――心だけになったダリウス王のもとにいるのだろう」 「ザック、その話をちゃんと聞かせてくれ」  ザックは紙束を拾い上げた。そこには探索隊が〈クリミリカの喉〉に至ったあとに起きた出来事すべてが書かれていて、ザック自身がこの数日の間に備忘録として書きとめたのだ。  彼は僕が気を失ってしまう前の出来事からはじめ、迷宮にあらわれたダリウス王の心だけの分身が、ユグリア王家の〈紋章〉の蛇とともにレムリーの都へ消えてしまったことや、探索隊がフェルザード=クリミリカを下ったあとは、ニーイリアの岩壁にあった古代魔法の扉が閉じてしまい、ネプラハインの裂け目もただの石の壁に変じてしまったこと、一度爆発させたボムは二度と再生しなくなり、迷宮の清浄作用も起きなくなったことなどを読みあげてくれた。 「〈紋章〉とともにあの蛇が俺のなかにいたときは〈秘儀書〉で知った古代魔法の道しるべがすべて見えていた。だが今の俺にはそんな力はない。レムリーの都に直接通じている古代魔法の通路はすべて閉ざされてしまった。俺はダリウス王がやったのだと思う」 「なぜ?」 「レムリーの都の中では同じことが俺にもできたからだ。ダリウス王はそれを望んでいた。王が――サタラスの中の体がもし目覚めて〈紋章〉をユグリア王家の血筋に引き継げば、また古代の扉は開くかもしれないが……」 「サタラスはおまえの父上が入れられていた装置だろう? ダリウス王はあの中で本当に生きているのか?」  ザックはどこか苦しそうな目つきになった。 「ああ。もしダリウス王に会いたいなら案内しよう。あの装置はジェムで動き、彼は死んではいない。鼓動が聞こえるんだ。ラニー・シグカントの友人の学者に装置を調べてもらっているが、俺にはどういう仕組みなのかさっぱりわからない。ダリウス王はある意味で……天才的な魔術師――技師――だった。迷宮探索でかきあつめた遺物と知恵をつかい、自らあれを造った。レムリーの都を求めて。俺には理解できない」  ザックの本当の父親がグレスダ王なら、ダリウス王は彼の叔父になる。ザックには思うところがいろいろあるのだろう。僕は話を変えようと思った。 「古代魔法が消えてボムも再生しなくなった迷宮はどうなったんだ?」 「すでに探索に向かった隊がいる。ボムのために近寄れなかった岩壁の内部から、大規模な古代の遺跡や新たなジェムの鉱床がみつかりつつある。大きな障害がなくなったから、探索はさらに進むだろうな。ただジェムの鉱床は」ザックは急に話をやめた。 「ジェムがどうしたんだ?」 「……ハイラーエのジェムはレムリーを支える魔法の源だ。レムリーの|昇華人《しょうかびと》も、ダリウス王も、ジェムによって生きている。今のユグリア王国のためにハイラーエを掘り続ければいつかレムリーの都は消滅するかもしれない。レムリーは古代ユグリアの遺産だ。サタラスの中のダリウス王についても、いずれ真剣に考えなければならない時が来るだろう。だが――今は現世のユグリア王国の問題が山積みだ。ヘザラーン族はダリウス王に愛想を尽かしていた。王が俺に譲位を望んだ以上に、俺は彼らにとって、新王として立つのにちょうどよかった、というわけだ」  ザックはふうっとため息をついた。 「オスカー」  急に改まった声色で名を呼ばれた。僕はザックの眸をみかえす。 「ん?」 「こんなことになってしまったが、俺と一緒に……進んでくれるか?」 「何をいってるんだ」深刻な声に笑いがこぼれた。 「おまえがディーレレインに僕を迎えに来た時、いったじゃないか」 「もう一度だ。俺がユグリア王になっても」  もちろん、と答えようとして、ふと頭をよぎった考えがあった。 「待て。おまえが王位を継いだら、そのあとはどうなるんだ? その……後継ぎとか……」 「俺はおまえとスキルヤの誓いを立てた」  ザックは淡々と告げた。 「あの誓いはたとえ王位を継いだ者にも側妃を持つことを許さない。幸い、ダリウス王にはお子がいる。いつか目覚めて〈紋章〉を次の世代に継がせようとするはずだ。だが、その相手は俺ではない」 「でも……それでいいのか?」  ザックはすっと息を吸った。ひと息でいった。 「迷宮に隠された古代魔法の扉をひらくには古代から伝わるユグリア王家の血が必要だった。俺の母はグレスダ王の妹だった。俺の血は〈紋章〉の蛇が求めるほど濃かった、ということだ。この傷はおそらく、俺の母親がつけたものだ」  ザックの指がひたいの傷痕をなぞる。僕は彼の言葉が意味することをすこし考えたが、ユグリア王国にどんな秘密が隠されていたとしても、もはやどうでもいい話のように思えた。それよりも大事なのは、ここにザックがいる、ということだ。  僕は巻きつけていた上掛けをすべりおとした。ザックに向きなおって裸の胸をおしつける。 「ザック、レムリーの都のこと、おまえはどのくらい覚えている? 僕はもうあまり思い出せない。あの場所で起きたことは全部……ただの夢だったような気がする。あそこで僕らには……体がなかった。こんな風におまえを感じることもできなくて……」  ぼそぼそとつぶやくうちに、何を話したかったのかわからなくなってきた。僕は唇が勝手に言葉をつむぐのにまかせた。 「だから……おまえが蛇にそそのかされるまま、レムリーに留まらなくてよかった。心だけのものにならなくて、よかった……」  今はもう、僕の心の中にしかいないファーカルのように。 「……オスカー」 「おまえがユグリア王になっても、僕はおまえの魔法技師だ」  ザックの腕が僕の背中にまわる。触れあったところから、僕のなかに、ザックの体をめぐるもの、いのちの証拠が流れこんでくる。トクトクと僕を満たして、僕の体まで熱くなる。

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