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まだ朝と言ってもいい時間帯ではあるが、日はもう既に高く、漂う空気には熱気とそしてわずかばかりの息苦しさが混じっていた。
線路沿いの道から、商店街へ。それを抜け、片側二車線の大きな道路を渡る。朝と昼の狭間でも、商業地の中心では車と人が激しく行き交っていた。
しかし、道路を渡ってから、コンビニエンスストアの横を通り過ぎると、その雰囲気が一変する。少しずつ左へと曲がっていく通りの両側には、カラフルな色をした建物が立ち並んでいて、その屋上には『HOTEL』という文字と名前が書かれた四角い看板が鎮座していた。
通る人の数が一気に減り、まるでどこかの異空間にでも迷い込んでしまったようだ。
いや――私は、そのような異質なものを求めてこの道を歩いている。これから向かう場所もそうだ。だから、それでいい。
※ ※
「ルカ、指名入ったぞ」
受付の奥寺が、ボクの名前を呼びながら、コンパニオン控室の扉を勢いよく開けた。壁の隅っこで座っていたボクを見つけ、笑顔を見せる。歳は二十半ば。なんでもお金をためてアメリカに行くのが夢らしい。
「あのさ、奥寺。ドアを開ける時は、ノックしなっていつも言ってるだろ」
セーラが視線だけを動かし、鋭い声を出した。
セーラはこの店のコンパニオンの一人で、常に売り上げのトップ3に入る売れっ子だ。『サオ』はついたままだけど、『タマ』はもう手術で取ってるらしい。ホルモン治療もしていて、声も少しハスキーさはあるが、ほとんど女性のものに近い。
奥寺が「すみません」と謝ると、セーラは鏡に視線を戻し、メイクのチェックを始める。
「指名?」
顔を上げ、奥寺にそう訊き返してみた。
「そうだよ、初めてだろ。良かったじゃないか」
奥寺は本当に嬉しそうだ。それ自体に嫌な気持ちはないけど、指名が入ることって、そんなに良いことなのだろうかと不思議に思う。
「誰」
思い当たる客はいなかった。三○分 、そして『手抜き』専門であり、客とゆっくりしゃべることもしてこなかったボクには、今まで指名が入ったことなんかなかったから。
「マタイって名乗ってたけど」
奥寺がそう教えてくれる。予約の時に聞いた名前なんだろうけど、その名前に聞き覚えはなかった。
というか、そもそも客に名前なんて聞かないし、顔もイチイチ覚えてない。聞くだけ無駄だった。
「知らない」
首を横に振る。
「えっ、そうなのか? でも、九〇分コースでの予約だぞ」
それを聞いて、ボクは驚きを隠せなかった。
奥寺は『それほどお前を気に入ったお客さんだぞ』と言いたいんだろうけど、九〇分 だと、客とのプレイ内容にAF が入る。つまり『本番』をする、ということ。でもまだ一度も経験したことはないし、しようとも思わない。
元々、それをしなくてもいいという条件で、この店のバイトを始めたのだ。
なのに。
「ちょっと、アンタ、どういうつもりだい。ルカはショート限定でバイトしてるんだろ。ロングじゃ、プレイ内容が違うじゃないか」
セーラがまた手を止め、今度は奥寺の方に顔を向けて怒鳴り声を上げた。セーラは、ボクがバイトを始めた時から何かと気を使ってくれる。まるで、お姉さんのような人だ。
「え、い、いや、そ、そうですが、向こうがそう言ってきたので」
奥寺は、ヤバい気配を感じたのか、目に見えて慌てた様子へと変わった。
「そのお客さんに、ルカが『手抜き専門』だって確認したんだろうね」
「い、いえ」
「今日は店長がお休みだってのに、何やってんだよ。お客様にも失礼だろうが」
まるで先生に怒鳴られている生徒のようだ。セーラが両手で、手入れの行き届いた流れるような長い髪を抱えた。
「すみません」
「ったく……客番号は調べたのかい。前はいつ来たか、それで分かるだろ」
「それが、聞くのを忘れてしまって」
奥寺が体も声も可哀想なくらいに小さくしている。セーラは、怒りを消そうとでもいう様に、大きな溜息をついた。
「全く、アンタは本当にバカだねぇ。そのお客さん、何時の予約なんだい」
「一〇時です」
「もうすぐじゃないか。チーフは遅番かい」
「そ、そうです」
「とりあえずそのお客さんが来たら事情を説明して、納得しないようならアタシを呼んどくれ。店は評判が大事なんだよ。こんなドジ、二度とすんじゃないよ」
「わ、わかりました。すみません」
奥寺はそう言って頭を下げると、ドアを音がしないように注意深く閉め、パタパタという足音をさせて去っていった。
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