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3-4
バスタオルで体に付いた水滴を拭きとる。そこでようやく、何か気が済んだように感じた。
鏡をのぞいてみる。首元でそろえたはずの髪の裾はまっすぐには収まってくれず、左右に広がっては無造作に跳ねていた。染めてもいないのに、全体的に茶色い。髪も肌も母親に似ていると言われたが、母親の顔なんか覚えてない。
バスタオルを籠に放り込み、ドアを開け、電気を消す。プレイルームには青白い光だけが残された。ただ、男がいる空間だけが黒く塗りつぶされているように黒いシルエットになっている。それを少し、ほっとしている自分は、一体何なのだろう。
男の横に座る。硬いマットレスのスプリングが僅かに揺れた。しばらくじっとしていたが、男には動く気配はないし、何もしゃべらない。ボクの息遣いだけが部屋の中に響いている。
しばらくそのままの時間が過ぎていった。
男を横目で見てみる。男は、正面の壁をまっすぐに見つめていた。
「しないの?」
声を掛ける。
「何を?」
冗談でも、意地悪でもなく、男は本当に何をするのか分からないようだった。本当に、この男はここに何をしに来たんだろう。
「何、したいの?」
バスケットに入れていたグラスを取り出し、ペットボトルのお茶を注ぐ。それを半分だけ飲んだところで、
「何をするべきなのか、知らないし、分からない」
と、男が答えた。
セーラだったら、『ありがたい客じゃないか』と言って、自分と遊ぶ『喜び』を客に教えることだろう。そしてセーラの指名客がまた一人増えるんだ。
でもボクは、そんなテクニックも、そんな気もない。
「お兄さん、名前は」
タイマーを見ながら男に尋ねる。二〇分……まだあと七〇分もある。
「又井 」
「マタイ、ね。何でその名前にしたの?」
どうせお店に名乗る名前なんて、嘘に決まってる。でも、それならもっとありきたりな名前にしたらいいのに。
「理由? ない」
「そう。じゃあ、マタイって呼んでいい?」
「ああ、構わない」
男は、ボクが戻ってきてからほとんど動いていない。両腕を太ももの上に載せた状態のまま、顔を正面に向け、目だけこっちを見ている。
このまま意味の無い会話で時間を潰そうと思えば潰せそうだった。このマタイと名乗った男も、まるでそれを望んでいるかのように見える。でもそれは彼の『思うツボ』なんじゃないだろうか。
「じゃあ、寝て」
立ち上がり、男にベッドを指し示す。グラスが二つとペットボトルが置かれた小物置きを壁際に追いやり、男の方を向く。
しかしその男――マタイは、その態勢を全く変えてはいなかった。
「なぜ」
マタイがそう訊き返す。
「なぜって」
「君はそれを望んでいない」
ボクを見上げるような視線。でもそれは、性的刺激を懇願する目でも、ボクの肉体を性的妄想に使う目でもなかった。
全てを見透かしているような目。心の奥底を覗きこまれるような不快感を感じる。
「いいから」
少し語気を強め、ベッドを指さした。しかしマタイは動くこともなく、ボクから視線を外そうともしない。
悟りきったような瞳。それが、ムカツク!
「じゃあ、何、ボクが何を望んでるか、お兄さんに分かるの?」
そのまま指を、マタイの鼻へと向ける。
と、マタイの左手がボクが突き出した右手を取った。軽く、本当に軽くボクの手を引く。力が、吸い取られるように抜けていくのが分かった。手を引かれるままに、マタイの横に、落ちるように座る。マタイの腕が、少し冷えてきたボクの脇腹に触れた。
そのまましばらくの間、部屋にはボクの息遣いと、クーラーの低く唸るような音だけが響き続けた。
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