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6 人の生くるはパンのみに由るにあらず

 涙がこぼれ落ちた理由は、本当に、自分でもよく分からない。ボクの中にある様々な感情を何処へ向けていいのか分からないという茫然とした状況が、涙になったんだろうか。  あの時の感情の中で一番強く心に残っているものを言葉で表すなら、悲しみでも喜びでもなく、憐れみなんだと思う。  でも、それが何に向けられたものなのかもよく分からない。  ボクがベッドに座ると、マタイは理解不能だとでもいうような表情でボクを見つめ、「何をする」と尋ねた。  憐れみという感情は、この男に向けたものなのかもしれないし、結局マタイの言い当てた通りだった自分に向けたものなのかもしれない。  かもしれない、だけじゃ結論なんか出るはずがない。だからボクはもう、そのことについて考えるのをやめた。  プレイの時間はまだ後三〇分ほど残っている。しかしマタイは、シャワーを浴びたことで、もう終わりだと思ったようだ。  シャワー室での熱いハグやキスは一体何だったのかと拍子抜けするくらいに、マタイはボクの横で静かに座っている。部屋の冷気で瞬間冷却でもされたのだろうか。押し倒すくらいすればいいのに。   「マタイ、まだ出してないし」  そう言いながら、マタイの腰に巻かれているバスタオルへと手を伸ばす。しかしマタイは、そのボクの手を取り、制止した。 「その必要は無い。目的もなく射精をして、そこに何の意味がある」 「目的って、気持ちよくなれるよ」 「その必要性を感じない。射精という行為は子供を作るためにするものだ」  その表情は至って真面目で、別にボクをからかっているわけでも、困らせようとしているわけでもない。  この男、本当に性欲が無いのだろうか。 「じゃあ、さっきのセックスも無意味?」  思わず聞き返したけど、すぐに後悔する。『そうだ』なんて返事をされたら、あまりの惨めさにまた部屋を飛び出してしまいそうだったから。  でもマタイはそんな返事を返す代わりに、ボクから視線を外し、目線を少し上に向けて考え出してしまった。  この男は、やることなすこと全てに意味を求めようとしているに違いない。でも、それが見つからないまま、当てもなく彷徨っている。  求めるものは違っている。でも、どこかボクと似ているような気がした。 「他の店には行ったことあるって言ってたし」  男性は初めて。でも女性ならあると言っていたことと、マタイが僕に話したことはずいぶんと矛盾している。  ただ格好付けの為に言ってるなら、随分とつまらない人間だなと落胆しかけたところに、「仕事でだ」という返事が返ってきた。 「仕事? 風俗に? 何の仕事なの」 「知りたいのか」 「別に、言いたくないならいい」  仕事で風俗店に行く男。社会的、反社会的、どちらにしても碌なものではなさそうだ。だからこそなおさら知りたくなるというのが、人間の性というものなのかとちょっと可笑しくなる。  マタイは、衣装籠の横に置いていたビジネスバッグに手を伸ばした。中から名刺を取り出し、ボクに差し出す。  そこには、住所と電話番号、そして『又井探偵事務所』という文字が書いてあった。 「探偵?」 「ああ、そうだ」 「いろいろ突っ込みどころが多すぎ」 「何が」 「マタイって、本名だったんだ」 「そうだが」 「偽名って言ってなかったっけ」 「偽名だと言った覚えはない」  名前の話をした時、マタイが何て言ってたか思い出せない。その言葉を聞いて、それが偽名だと思ったのは確かなんだけど。 「殺人事件でも解決するの」  ボクがそう尋ねると、マタイは苦笑とも自嘲とも取れる表情を見せた。 「そんな依頼はない。ほとんどは、浮気調査、身元調査、身辺調査だ」 「それって、興信所のやることじゃないの」  コンパニオン仲間に、そんな話をしていた人がいた。でも、そこにはリアル感がなく、そういう仕事の人が本当にいるのが少し意外に思えた。 「興信所は主に企業相手、探偵は個人相手だ」 「へえ」 「後は、人探しくらいだな」  他人の秘密をこそこそと嗅ぎまわる。マタイが語る仕事内容に、そんなマイナスイメージを持ったが、その最後の言葉にボクははっとさせられた。

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