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お店のある階に止まり、エレベータの扉が開くと、客を出迎える奥寺の声が通路に響く。でも、ボクの姿を見て顔をしかめ、その後ろからマタイが出てくるのを見て、慌ててまた挨拶をし直していた。
横を通り過ぎる時、奥寺がボクをにらんだが、見ぬふりをして店内へと戻る。そのまま控室へと直行すると、セーラが困った顔でボクを見た。
「入ってくるときはノックしな。それはルカもおんなじだよ」
「ごめんなさい」
一つ頭を下げてから、バッグの元へと急ぐ。化粧道具を取り出し、空いている鏡台の前に座った。
「来たのかい」
セーラはメイクの仕上げをしているようだ。顔の角度を色々変えながら、鏡を見ている。
「うん」
「良かったじゃないか」
納得がいったのだろうか、そう言うとセーラは立ち上がった。
「別に。良いも悪いもないし」
「そうかい。じゃあアタシは行ってくるよ」
ボクの肩に手を置き、二回軽く叩くと、セーラは控室を出て行った。その姿を目で追う。セーラの美しさには、どこか威厳のようなものを感じた。いや、プライドというべきだろうか。花魁のような風格。ここは高級なお店じゃないけど。
鏡をのぞいてみる。ボクにはそんな美しさも威厳もプライドもない。別に欲しいとも思わない。
手に入るとは思えないから、欲しいと思わないのか。それとも、欲しいと思わないから、手に入らないのか。
出勤日には、下地とファンデは塗るようにしていた。ただ、少し時間が経っていたから軽く直し、シャドーのコンパクトを開ける。そこでふと手が止まった。
ボクは一体、何を隠そうとしてるんだろう。
ドアがノックされる。部屋の中にはボク一人だけで、他のコンパニオンは皆客に付いていた。どうぞと返事をすると、開いたドアの向こうから奥寺が顔を出し、ボクを見て「指名だぞ」と言葉をかけてくる。ボクがそれに頷くと、奥寺はすぐにドアを閉めた。
鏡を見つめ、シャドー、チーク、ルージュを塗っていく。五分も経たずして、鏡の中に場末の娼婦が現れた。
メイクを終えるとすぐ、小物を入れたバスケットを持って、指示されたプレイルームへと向かった。扉をノックして、中に入る。マタイは、ベッドに座って正面を見つめていた。ボクが入ってきても、こちらを向く様子はない。
「ルカです」
その言葉に、マタイは顔を少しだけ動かし、ボクを見る。
「こんばんは」
その一言だけが返ってきた。
部屋は、相変わらず薄暗い。調光スイッチを一番明るいところまで回した。青味がかった光で部屋の中が満たされる。クーラーが効きすぎるくらい効いていた。
備え付けの冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルとグラスを取り出し、持っていく。小物置きの上にグラスを置き、お茶を注ぎながら、横目でマタイを見る。マタイもボクを見ていた。
「何」
ペットボトルを冷蔵庫にしまい、マタイの隣に座る。
「化粧、したのか」
「そうだよ。おかしい」
「中身が変わるのなら意味はあるが、そうでないのなら、無意味だ」
マタイらしい言葉だ。
「化粧すると、気分が変わるって。心も中身だよね」
そう返し、顔をマタイの方へ向ける。マタイは、しばらくの間ボクを見つめた後、「そうだな」とつぶやいた。
「なら、もっと薄い方がいい。化粧をしているかしていないか分からないくらいの、その境界あたりが、ルカには合っている」
その言葉に、顔から力が抜けそうになるのを、唇をかんで耐えた。ベッドから立ち上がり、マタイを見下ろす。
「十五分。いや、十分。待てる」
「仕事は終わらせてきた。今日はもう何もない」
「延長はできないよ」
「構わない」
その時間に何をするつもりなのか、マタイは訊いてはこない。
「じゃあ、待ってて」
そう言って、ボクは部屋を出た。
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