39 / 68

8-5

 廊下に出ると、受付にいた奥寺が慌ててやってくる。何もないから大丈夫と伝え、控室へと向かった。誰もいない控室の中で化粧落とし、下地からやり直す。薄く、全てを薄く。シャドーも、チークも、そしてルージュも、その全てを薄く塗った。  化粧にかかった時間の倍ほどの時間をチェックに使う。出来上がった顔は、素顔とほとんど変わらないように見える。でも、どこかが確かに変わっているように思えて、満足とも納得とも違う不思議な気持ちになった。  時計を見ると、もう十五分以上が経っている。慌ててプレイルームへと戻り、恐る恐る扉を開ける。でも、中に入るときは、平然とした顔に戻した。    ドア音に気付いたのか、マタイがこっちを見ている。服を着たまま、ベッドに腰掛けたままだ。ゆっくりと近づき、ネグリジェの裾を押さえながら、マタイの隣に座った。 「どう」  顔を少しだけマタイの方に向ける。睨むようにも、眉を顰めるようにも見える表情で、マタイはしばらくボクを見つめていた。  「美しい」  マタイの口からふっと出た言葉に、呼吸が止まる。息の吸い方を忘れてしまったみたいに。だから、鼻から息を出す。それと一緒に、「ふん」という音が鳴った。 「素顔には及ばないが」  マタイがそう付け足す。胸の奥を柔らかく握られたような気がして、視線をマタイとは反対の方へと向けた。 「その言葉、マタイらしいね」 「らしい、とはどういう意味だ」  多分、相手を喜ばそうとか、相手に合わせようとか、そんなことは考えてないんだろう。ただ、頭に浮かんだことを口にする。生きていくには、不器用すぎるね。 「別に」  のどの渇きを覚えて、小物置きの上に置いていたコップに手を伸ばす。と、マタイの手がボクの手をつかんだ。そのままゆっくりと、ベッドに押し倒される。抵抗は、しなかった。ネグリジェの肩ひもが片方ずれ落ちる。 「のど、乾いた」  ボクの言葉に、マタイの動きが止まる。少し考えるようなしぐさを見せた後、体を起こし、コップを手に取った。  ベッドに寝たまま、マタイの動作を目で追う。 「飲まないのか」  コップを持ったまま、マタイはボクが体を起こすのを待っている。 「飲ませて」 「寝たままでは、こぼれる」 「口移しで」 「キスは、NGじゃなかったのか」  こないだ、したくせに。 「遊びならね」  少しの間、ボクを見つめた後、マタイがお茶を口に含む。 「知らないよ。どうなっても」  もうここには来ない。そんな選択肢もあったはずだ。昨日までならまだ、客とコンパニオンの関係で終われたのに。  それが、生物的に無意味な関係へと変わってしまう。その先に、この人は何を見るのだろう。 「天国。それとも地獄、かな」  言葉を発するためにあけた口が、マタイの口に塞がれる。冷たく、でも少しだけマタイの体温で暖められた液体が、口の中へと流れ込んできた。それが音を立てて喉の奥へと落ちていく。すべてがボクの中へと取り込まれた後も、二人の舌は絡まりあうのをやめない。  そっと、マタイの頭に腕を回す。マタイの、熱を持った腕がボクの体を抱きかかえた。でも、熔け合うには、まだ熱さが足りない。  腕に力を込める。マタイが着ているカッターシャツの感触が、邪魔で邪魔で仕方がなかった。

ともだちにシェアしよう!