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ルカの店を出ると外はすっかり暗くなっていた。その中で、いかがわし気な店の照明だけがその存在感を主張している。駅までの道程にある様々な飲食店の前を、回り道しながら通り過ぎてみたが、食指の動くようなものは見つからない。かといって、駅地下の惣菜店はもう閉店間際で、大したものは残っていないだろう。
食事が作れないわけではない。しかし今日は、あまりそれをしようという気にはなれなかった。仕方なく、カウンター席のみのパスタ店で夕食を済ませることにする。しかし、その時間でも客は意外に多く、食事にありつくまでに想定以上の時間待たされてしまった。
食事の後、いまだ蒸し暑さの残る歩道の上を、家へと向かう。大きなターミナル駅から徒歩で十五分ほどのところにあるマンションが、私の事務所であり、家でもあった。
食事をしていても、歩いていても、ルカの姿が頭から離れない。苦しいとも切ないともとれる表情で、まるで踊るように喘いでいたその鮮烈な美しさに、初めてと言えるはずの射精の印象は随分と薄められていた。
無意味であるが故、記憶として残るほどのことではなかった。そういえるのかもしれない。
しかし、と思う。ではなぜ、ルカの姿はこれほどに私の脳へと刻み込まれているのだろう。
それを美しいと思ったからなのか。では、美しさとは何なのか。
数多の哲学者がその難題に挑み、その同数かそれ以上の定義を垂れ流してきた。その挑戦は、まさに終末まで続いていくことだろう。
まさしく無意味だ。美しさなど、存在しない。あるのは、刺激の受容と神経細胞の興奮、そしてそれを美しいと錯覚する人間だけである。人間がいなくなれば、美しさという幻影も共にこの世から消え去るだろう。すべては浮つ世の水面に現れた波紋に過ぎないというのに。
百貨店、もしくは大型商業施設が両脇に並ぶ大通りをしばらく歩く。何に使うのかよく分からない広大な敷地の前で車道は大きく左へと曲がっていた。敷地を潜り抜ける地下道に入る。それを出ると、そこはマンションの立ち並ぶエリアだった
繁華街の中心地から外れると、店の数も少なくなり、辺りは想像以上に暗い。遠目には、煌々と灯りをつけている高層ビル群が見える。さして距離も離れていないというのに、その陰陽は随分と対照的だ。
もうしばらく歩いてから角を曲がると、ようやくマンションのエントランスの光が、暗闇の中に浮き上がって見えてきた。
ふっと息を吐きながらエントランスに入ろうとして、傍に人影が一つ立っているのに気付く。
白いブラウスにチェックのスカート、そして裾が少し跳ねたミドルボブの髪の上にはベレー帽が載っている。線の細い体は、抱きしめれば折れてしまいそうだ。その人影は、手持無沙汰に腕を組み、入り口の脇にある植木に顔を落としていた。
「なぜ、ここにいる」
そう声を掛ける。相手は、一瞬睨むような目をこちらに向けたが、すぐに目を見開き、そして顔をそむけた。
「すぐ、分かるんだ」
高く澄んではいるが、その声色は女性のものにしては波長が違う。
「そういうのが、仕事だ」
探偵なら、どんな変装をしていてもそれがターゲットであることを遠目でも判別することを求められる。
「つまらない答えだね」
ルカは、少し不満げにそう漏らすと、私の傍に寄って来た。
「来るとは聞いてなかったが」
「言ってないし」
「何か用か。忘れ物をした覚えはないが」
しかし、それには答えず、ルカはエントランスへと入ると、オートロックの自動ドアの前に立った。それを横目に見ながらパネルを操作し、オートロックを解除する。
ルカは開いたドアを躊躇いもなく入っていった。エレベーターはすでに一階に止まっていて、ルカがボタンを押すとすぐに扉が開く。
「何階」
「五階だ」
私の答えに、ルカが5という文字の書いてあるボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが動き出した。
「待ってる間に、三回も声掛けられた」
「食事をしていた」
「ふうん。男だって言ったら逃げてったけど」
それには答えなかった。エレベーターが止まり、扉が開く。ルカが先に外に出た。
「部屋、広いの」
私がどの方向へ行くのか、ルカは立ち止まって待っている。そこからは、私の後をついてきた。
「1LDKだ。一人暮らしと言った覚えはないが」
部屋の前に来る。ドアには、『又井探偵事務所』という小さなプレートが張り付けられているが、ルカはそれをちらと確認したようだ。
「一人暮らしでしょ。探偵事務所と兼用なんだし」
物憂げな目で、ルカが私を見る。鍵を開け、扉を開いて、「どうぞ」とルカを促した。
「入っていいの」
「駄目な理由は存在しない」
私がそう返事するや否や、ルカは何も言わずに玄関へと入り、さっさと茶色いローファーを脱ぐと、スカートを翻し、廊下を奥へと進んでいった。
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