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 しばらくの抱擁の後、私もルカと一緒に外に出ることにした。ある程度の買い物はしておかなければ、軽い食事さえ作れない。  外出の用意が終わった時には、ルカは昨日買った半袖の白いシャツと青いキュロットスカートを身に着けていた。顔には薄く化粧をしている。どうかなと尋ねられたので、とてもいいと答えた。  合鍵を渡そうとしたが、ルカは受け取らなかった。スマートフォンも持っていないのだから連絡をどうするつもりなのかと訊いたが、ルカは「夜には帰るから」と、少し虚ろ気な笑みを返しただけだった。  部屋を出て、繁華街への道を二人歩く。ルカの着ている服が、曇天の下、景色ににじんで見えた。そのまま溶けていきそうに思え、思わず手を握る。ルカは一瞬不思議そうな顔を見せた後、「あついよ」とつぶやいた。  カフェでモーニングを取り、その後、店の前で別れる。ルカが何かを考えながら遠ざかっていくのを、しばらくの間見つめた。  駅の周辺で買い物をし、そして部屋へと戻る。普段の日曜日は、依頼が無いのであれば、書類の整理や部屋の片づけ、調べ物などをして過ごすのだが、それらをやる気は起きなかった。  ソファにもたれ、カーテン越しに窓の外に目をやると、摩天楼という程ではないが、幾つもの背の高いビルが立ち並んでいるのが見える。湿気を多く含んだ熱い空気の揺らめきが、その光景をまるで蜃気楼のようだと錯覚させた。   誰かの帰りを待つというのは、こんなにも頭の中を支配することだったのかと、少し自嘲する。つい先日までは、思いもしなかったことだ。  と、寝室の電話が突然鳴り響く。依頼の電話かと思い慌てて出てみると、お見合い相手の身辺調査を依頼していたクライアントからだった。金曜日に調査報告書を渡し、依頼を完了させたものだ。調査料は月曜に振り込まれるよう手続きをしてくれたそうだ。  そのついでに、お見合いが破談になったことを聞かされた。相手の男にはかつて交際していた女性との間に子供がいたのだが、それを隠していたことが原因らしい。そうですかと応じたが、それ以上何も言うことはなかった。最初にそれを伝えられていたら結婚していたのだろうかと疑問には思うが、私は依頼をこなしただけであり、その結果をどう判断しようがクライアントの自由なのだ。  必要な話を終え、電話を切る。リビングには戻らず、そのまま寝室の事務机に座った。  そもそも結婚とは何であるのか。かつては、家と家とのつながりであり、過去から未来へと血筋をつなぐ方法であった。いや、今もそう考える人も多いだろう。  一方で、家とは関係なく結婚をするカップルもいる。そして、法的に不可能であっても、結婚を希望するカップルもいる。それは子供や子孫、家というような未来の為ではなく、今を生きる二人の為のものなのだろう。  そしてルカを思う。どこか儚げで、手を握っていなければ蜃気楼のように消え失せてしまうのではないかさえ思える。それ程までに彼は、あまりにも美しい。独占欲という名の形状定まらぬ塊が、私の奥底にその体積を増大させている。彼の美しさに比して、それはなんと醜悪なものであろうか。  その独占欲を満たす方法として存在するものの一つが結婚なのだろう。しかし私はそれを望まない。では、ルカはどうなのだろうか。私を独占したいと思うだろうか。  しかし、結婚による『独占』とは、法的なものでしかない。心は自由であり、そのようなものでは縛れないということは、仕事を通じて嫌と言うほど見てきた。浮気や不倫という姿で。  鳥は森を飛ぶから美しく、花は野に咲くから美しい。鳥籠の中に入れてしまったら、花壇の中に植えてしまったら、それはもう無為自然なる姿ではありえない。  それを求めるが故に独占しようとするが、独占してしまえば求める姿ではなくなってしまう。なんとも、皮肉にして無情ではないか。私の求めるものを手に入れるには、このような不安に苛まれ、蝕まれながら生きていかなければならないのだろう。  様々なことを考えながら細々とした用事をしているうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。ルカは夜には帰ると言っていたが、夜というのが何時のことなのかは言わなかった。  夕食はどうするのだろうかと思ってすぐ、ルカが夕食を食べないことを思い出す。自分の夕食をどうするか、少し考えたところで、その私の思考を遮るようにまた電話が鳴り響いた。  電話を取り、「はい、又井探偵事務所です」と応答する。電話の主は女性で、「突然の電話で申し訳ありません」と切り出した。 「はい、何かご依頼でしょうか」  依頼の電話ならば、相手はあまり名乗りたがらない場合が多く、先に依頼かどうかを訊くようにしている。  私の言葉に、電話の向こうの女性が一拍間を開ける。 「依頼、といえば依頼でしょうか。私はユダと申します」  ナイフのような鋭さを持ったハスキーな声だった。音だけでは、湯田なのか遊田なのかは分からない。まさか片仮名ではないだろうが、どちらにしても聞き覚えのない名前だ。  依頼の内容を尋ねようとしたが、そんな私の気配に、相手の女性が言葉をかぶせた。 「プリティ・ローズのオーナーをしています」

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