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 お互いを愛し、疲れ、クーラーの冷気の中、お互いの熱を確かめ合うように抱き合って眠る。そんな夜が明けると、ルカはセーラと話をしてくるといって部屋を出ていった。それを見送り、私も外出の用意をする。スーツパンツとシャツだけでは少しラフすぎるかと思い、紺色のネクタイを巻いた。  心の中に渦巻く不安は、ルカが連絡手段を持っていないからだけなのか、それとも、ルカが身に纏うどこまでも儚げな雰囲気によるものなのか。  携帯電話すらなかった時代、人はこれほどまでに不安を抱えながら生きていたのだろう。それを当たり前だと思い、あるいは耐え、あるいは諦めていた。  しかし、とも思う。一度手にしてしまえば、二度と手放すことができない。そのようなものを手に入れれば、それまでとは異なる不安がまた心を襲う。ルカがスマートフォンを持っていたとしても、きっと不安は消えないに違いない。  全てを捨てない限り、人の心に安寧など訪れることは無いのだ。それが悟りか。そう思うことが少しおかしく感じられた。  部屋を出て、駅前のホテルへと向かう。指定された時間よりも前にホテルのラウンジへに着いたが、そこにはもうすでに黒いスーツに茶色い縁のサングラス姿の女性が、ソファに座って待っていた。  ジャケットの間からは、深いV字の切れ込みのある白いブラウスが見えている。肉厚の無い細い体と合わせて、オーナーというよりはビジネスマンのように見えた。少し茶色く染めた髪には、ウェーブがかかっている。それが、予め教えられていた格好だった。  サングラスをしているのでその目元はうっすらとしか見えないが、口元や首元から推察するに、年齢は私より一回り以上、上のようである。 「又井と申します。ユダさんでしょうか」  女性の傍に行き、そう声を掛けると、女性は黙ったまま頷き、私に座るよう手で示した。  女性の向かいに座り、取り出した名刺を相手へと差し出す。女性はそれを受け取ると、一瞥してテーブルに置いた。彼女も自分の名刺をジャケットの内ポケットから取り出す。 「貴方の名刺には、お名前が載っていないのですね」  そう言いながら、取り出した名刺を私の前に置いた。 「仕事柄、用心することも多いですので」  それを手に取り、読んでみる。名刺の肩書には『株式会社エバールビー 代表取締役』とあり、その下には『弓田 衿伽』という名前が書いてあった。 「読めないでしょう」  落ち着きのある声が、向かいから発せられた。視線を彼女へと戻す。サングラスの奥から、細く鋭い目が私を射抜いている。 「それとも、ルカから聞きましたか」 「ええ。漢字は初めて知りましたが」  ルカの話が本当なら、コンパニオンから経営者まで上り詰めた女性だ。様々な壁を乗り越えてきたのだろう。配偶者かパトロンのような、誰かの力を借りて成功した者とは明らかに違う雰囲気を身に纏っている。 「調べられたくないことまで調べるのが仕事でしょうから、恨まれることも多いのでしょうね。(つとむ)さん」  その言葉に、背筋にどこか冷たいものが走るのを感じた。調査業協会に所属している以上、私のフルネームは調べればわかることである。しかし、それをわざわざ相手が警戒するように口にするとは。 「危ない仕事は受けない主義です。そういうことは」 「無くは無いですよね」  私の言葉を遮るように、弓田衿佳は言葉を重ねてきた。まるで、警告のようだ。 「そうですね。人間に係わることですから、おっしゃる通りです」  私がそう応じると、弓田衿佳はそれで満足したのか、「では、場所を移しましょう」と言って、流れるような動きで立ち上がった。 「どこへ」 「部屋を取ってあります。誰かに聞かせるような話ではありませんので」  そう言うと彼女は、私を待つこともなくさっさと歩き出した。

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