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男、という言葉に、それがルカの父親かもしれないという可能性が頭に浮かんだ。
「もしかして、その男性が」
私のその言葉に、しかし湯田衿佳はゆっくりと首を振った。
「さあ。その男があの子の父親だったのかそうでないのか、今となっては分かりません。調査でもわかりませんでした。ただ、マルーシャが亡くなったのは、姿を消してから五年後のことだったようです」
「五年後、ですか」
「ええ、五年後です。それも日本で。でもその五年間、マルーシャから連絡をくれたことはありませんでした」
そこで湯田衿佳は言葉を止めた。鋭い視線が、私の瞳を射抜いている。彼女の目には、マルーシャの姿が映っているのだろうか。
「だから私は」
湯田衿佳は再び目を閉じた。足をそろえ、背筋を伸ばし、顔を前に向け、そして目を開ける。その瞳にはもう、鋭いものは無くなっていた。
「あの子を養子として迎え入れることにしました。それをあの子に伝えた時、あの子も反対はしませんでした。いつからか、あの子も母親のことを言わなくなっていましたし。ただあの子には、マルーシャが死んだことは知らせていません」
「では今は、ルカは貴方の子供、なんですね」
「戸籍上、あの子は『湯田ルカ』です。ルカ、というのは、あの子の本名なのですよ。いえ、正確にはルカシェンコ、ですけど。それが、マルーシャが母親としてあの子に残した唯一のもの」
感慨深げに、という形容詞が全く似つかわしくない口調で、湯田衿佳はそう話を締めくくった。
「では、ルカの母親を探すという依頼は」
「血は水よりも濃い、と言いますでしょう。口でどういっても、態度がどうであっても、あの子は心のどこかで母親を探しているはずです。貴方は、あの子の傍にずっといられますか。その責任と覚悟がお有りですか」
湯田衿佳が私にそう尋ねる。見様によっては、他人事を話すような、そんな表情をしていた。この女性はそうやってルカに接してきたのだろう。
しかし、その内側にはマルーシャへの、いやもしかしたらルカへの、形容しようのない複雑な思いを持っているのかもしれない。どうあがいても乗り越えることのできない、血の壁。彼女はそれを知っているのだろう。
湯田衿佳が、ルカのことを「あの子」と呼ぶのは、それがにじみ出ているから。私にはそう感じられた。
「はい」
私の返事に、湯田衿佳は少し眉をひそめた。
「いつか、母親について、あの子に話さなければならない時が来るでしょう。しかし、私はごめんです。だから貴方に、それを依頼します」
「そうですか、分かりました。お受けしましょう」
私がそう返事をすると、湯田衿佳はバッグを手に取り、中から少し分厚い封筒を取り出した。
「これで足りますか」
そう言って、封筒を私の前に差し出す。それを手にした瞬間、私の手にその重みがのしかかった。
「こんなには」
「二百万入っています。受け取ってください。ただ、もしあの子が手術を希望するなら、それを足しにしてもらえれば」
私の返事を待つことなく、湯田衿佳はバッグを閉じる。
「あの子は、心と体の性別が一致しておらず、ハーフと言う外見もあって、中学生の頃、学校での交友関係がうまくいきませんでした。いじめのようなことが無かっただけ良かったのかもしれませんが、それが影響したのか、高校には進学しませんでした。本当なら今頃、大学生になっていてもおかしくはないのですが」
「あの店でのバイトは」
「あの子が言い出したことです。自分と似たような境遇のコンパニオンと話をするのが好きだったようで、元々は清掃などを手伝っていたのですが、今年になって、接客もすると。お金を稼ぎたいと思ったのでしょう。私には、治療や手術の費用を出してくれと言ったことはないのです」
ふっと息を吐き、湯田衿佳はソファに背もたれた。その視線は宙空に注がれている。その目は何を見ているのか、私には分からなかった。
「分かりました」
封筒をバッグにしまう。それが合図になったように、湯田衿佳は「話は終わりです。今後、何かしらの報告もいりません」と口にした。
「領収書はどうしましょうか」
私のその問いかけに、湯田衿佳は視線を動かすことなくただ一言、「結構です」とだけ答えた。
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