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エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。
愛してる。そんな言葉が私の口から自然に出たことに、自分自身でも驚いていた。他人に対してはもちろん、今はもういない両親にも言ったことなど無かったのだ。
愛とは何であるか。この問いかけには、語る口が違えば語られる言葉も変わる。ある者はそれを見返りを求めない自己犠牲だといい、またある者は大切に思う精神、もしくは赦す心だという。
正しい答えなど存在しないだろう。それがゆえに、愛というもの自体が真実たり得ないのかもしれない。
一つ確かなことがあるとすれば、私がルカに対して抱いた感情は、そのような定義の向こう側に存在するものである。言葉では説明などできない。いや、それをしてしまえば、まるで穢されたようにすら感じてしまうだろう。言葉などいらない。それは、肉体も精神も超えた、魂の感応だった。
体に重力が掛かり、エレベーターが止まる。エントランスの自動ドアの前に立つと、低い音とともに、それが開いた。
エントランスには誰もいない。さらに外に出ると、マンションの入り口の外側に、スーツ姿の男が立っていた。男がこちらに気が付き、軽く頭を下げる。やはり、エントランスで会ったあの男だった。
「お待たせしました。又井と申します」
「無理を言ってすみません。サエグサと言います」
「今日、お会いしましたか」
私がそう言うと、男は少し慌てた様子を見せる。どうにも気弱そうな男だった。
「すみません。その」
「いや、構いません。色々、ご事情もあるでしょう。それでお話というのは」
依頼ならば、ゆっくりと聴く必要がある。もしそうなら、ルカを待たせることになるだろう。不機嫌な振りをするルカの顔が思い浮かぶ。
「ここでは何ですので、少し向こうへ」
そう言うと男が歩き始める。この時間、出入りをする住人はほとんどいないが、確かに誰も来ないとは言い切れない。私は少しだけ遅れて男の後をついていった。少し離れた場所にある小さな公園に向かっているようだ。
公園の入り口に差し掛かったところで、前を歩く男の更に向こうから、誰かが歩いてきた。スーツを着たビジネスマンのようだ。会社帰りだろうか。
サエグサと名乗る男は、人に見られるのを嫌うような仕草で公園へと入っていく。つれて公園に入ろうとしたが、男の行動に少し違和感を感じ足を止めた。
このままついて行っていいものか。公園と言っても、大した広さは無い。幾つかの遊具と砂場、そしてツタが絡まった棚とベンチがあるだけのものである。周囲をマンションに囲まれた開けた場所だった。
考えすぎだ。警戒するほどのものではないだろう。そう思い、公園へと入る。その時、後ろから声を掛けられた。
「おい、あんた」
何事かと思い、振り向く。その瞬間、腹部に衝撃と焼けつくような激痛を感じた。
何が起こったのか、分からない。二度、三度、衝撃が繰り返される。それが止んだ頃には、私の目の前にいる男の手に、黒く染まったナイフが握られていた。
体から、力が抜けていく。立っていることができず、崩れるように地面に倒れ込んだ。
「兄ぃ、なんてことを」
サエグサと名乗った男の声が聞こえる。
「うるせぇ、おめえは黙ってろ。こいつのせいで、俺の計画は無茶苦茶だ」
別の男が低い濁声で吐き捨てるように言った。見上げた先、街灯の薄暗い光の中、見覚えのある顔が私を見下ろしている。
「これじゃ、死んでしまう。こ、殺すだなんて、聞いて」
「社長だって迷惑してるって言ってたじゃねえか。こんなやつぁ、死んで当然なんだよ。ほら、行くぞ」
そして、二人の男たちが早足で立ち去る。辺りには、車のエンジン音が遠くで響くだけの、都会の静寂が戻った。
なぜ、という疑問は今は置いておかなければならない。左手には、腹部から流れ出る粘性の高い液体がまとわりついていた。地面にまでこぼれた液体が、どんどんと広がっていく。激痛で詰まった息を、どうにかして出し入れした。
救急車を――
右手を動かし、ポケットに手を伸ばす。しかし力が入らず、スマートフォンを取り出すことができない。
ここで死ぬわけにはいかない。そう思った瞬間、恐怖が襲い掛かる。死への恐怖ではない。意味のない人生を送ってきたものへの、これが報いだというのなら甘んじて受け入れよう。
しかし、である。私の死がルカのどのような影響を及ぼすのか。もはや音の無くなった静寂の世界で、そのことが私を震撼させている。
ただ、男が一人、この世からいなくなっただけのこと。ルカがそう思えるのなら幸いである。けれども、私がルカに感じた魂の邂逅、そしてそれがもたらす無限の欣喜を、もしルカも感じていたのなら――
神よ、願わくば、ルカの魂に、
祝福を。
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