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 この男を好きだと自覚した瞬間を、今でもはっきりと覚えている。  嘉貴と仲良くなって一年と少しが経った頃。茹だるように暑いお盆の日。――父親に捨てられた日だ。  その日は今年一番暑い日になるとネットニュースでも報じられていて、正午を過ぎる頃にはもう外の気温は三十五度を超えていた。  そんな猛暑日に突然父親がアパートに帰ってきて、騒ぎこそしなかったが凌は内心これでもかというくらい狼狽えていた。  学校などでは建前上、父親と二人暮らしということになっているが父親がこの家で過ごしたことは一度もない。母親と離婚し引き取られてから早二年。生活費を与えてくれるだけだった父親が、どうしてここに?  拭いきれぬ一抹の不安に気付かないふりをして、凌は努めて平静を装い口を開いた。 「……上がってく?」 「いや、ここで構わん」 「でも、暑いしお茶くらい……」 「必要ない」 「…………っそ」  けんもほろろに断られ、凌は居たたまれない気持ちで土間に立つ父親を盗み見る。  特別端正な顔立ちではないが、人好きする顔だと思う。温和で害のなさそうな、どこにでもいそうな中年男性。  白のカットソーにシアサッカー生地のネイビーのセットアップ。初めて見る私服姿は気取りすぎることもなく嫌みもない。  不倫とは縁遠い、よき夫でありよき父にしか見えないのに、人は見かけによらないものだ。 「海外に転勤が決まった。お前に会うのはこれが最後だ」 「…………は?」  ぼんやりとりとめもないことを考えていたところに、頭から冷水を浴びせられた心地だった。 「いい機会だから全部清算に来た。お前ももう十六だろう。自分で管理しなさい」  そう言って凌の前に差し出されたのは、通帳といくつかの封筒。 「この家の契約書や印鑑、高校卒業までの費用だ。大学も行きたければ自分の金で勝手に行けばいい。私は一切関与しない」  どうしよう。久しぶりに聞いた父親の言葉が、まるで異国の言葉のように聞こえる。  それくらい突然告げられた今生の別れに理解が追いつかなかった。 「この部屋も私名義で借りているから、お前が高校を卒業したら解約する。そのつもりでいなさい、用件はそれだけだ」 「ちょ……っと、まって」  海外? 最後? 解約?  次から次へと押し寄せる情報に、凌は言葉を失う。  けれど目の前にいる相手は凌の反応などまるで興味がなく、視線が交わることはない。 「どうしてもという時は、ここに連絡しなさい。私の知人の弁護士だ」  封筒にクリップで留められた弁護士の名刺を指差され、ますます混乱する。  未成年の息子を捨てることを容認する弁護士っているのか? ここに訴えたらあんたが負けないか? それともクズの知人はクズなのだろうか。多分そっちの気がするし、もはや本物の弁護士かも怪しい。 「元々関わりのない、何の価値もないお前には十分すぎる手切れ金だろう。ありがたく思うんだ」  ややあって、父親が初めて凌に目線を寄越し、言った。 「くれぐれもお前は、会社に乗り込んできたりするんじゃないぞ」  悪意に満ちた嘲笑う音が、鼓膜からどろりと流れ込む。

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