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 聞いたことがある。母親は父親の不倫が発覚した時、彼の会社に乗り込んでオフィスのど真ん中でヒステリックに彼の不倫を暴いたと。不倫相手も同じ会社の人間で、ふたりとも周りからの好奇の目に耐えられず退職に追い込まれたらしい。  父親のことを深く愛していたからこそ裏切られた後の憎しみが止められず起こした報復なんだろうし、父親も自業自得だとは思うが、母親のその狂気じみた行動は幼心にゾッとしたことを覚えている。  そんなことしない。するはずがない。そもそもあんたの会社どこだか知らねぇし。というかお前が悪いのに、何で俺が釘刺されなきゃなんねぇんだよ。  そう言い返したいのに、父親の嫌悪の眼差しに耐えきれず凌は何も言えないまま逃げるように顔を俯かせることしかできなかった。 「何してる。早く受け取りなさい」  話は終わったとばかりに、いつまでも封筒たちを受け取らない凌にしびれを切らした父親の声が険を含む。  拒むこともできずのろのろと手を持ち上げ受け取った凌は、父親の左手――もっと細かくいえば、薬指を見て、また固まった。 「……ゆびわ」  小さなその呟きに、ああ、と父親はご丁寧に凌の欲しかった答えをくれた。いっそ残酷なくらいあっけなく。 「結婚する。お前には関係ない話だ」  バサバサ、と。  今しがた受け取った封筒たちが音を立てて床に落ちていく。  けれどそれすら父親の心に響くことはなくて、手元の腕時計を確認した後、凌に背中を向けた。 「外に車を待たせている。これで失礼する」  ――ガチャン。  凌の返事を待つことなく、扉が閉まる音だけが部屋に虚しく残る。  なるほど、車で来ていたのか。道理でこんな暑い中、汗ひとつかいていないはずだと今更ながらに納得してしまう。  もしかしたら今日、日本を発つのだろうか。空港に行く前の限られた時間の中で来たのかもしれない。あの人ならやりかねない。  帰ってきたんじゃない、立ち寄っただけだ。  短時間で住む用件だと――息子を捨てることは容易いことだと決めつけてきたのだ、あの人は。 「…………はーぁ」  どれくらいその場に立ち尽くしていただろうか。  大きく息を吐いてから、バチンと景気よく両頬を叩く。 「……っし! 切り替えてこ」  普段と大差ない声で宣言し、床にばらまいてしまった封筒たちを拾い集める。  今日は昼過ぎからのシフトに入っている曜日だ、もう行かなくては遅刻してしまう。封筒の中身の確認は後回しにして、凌はバイトの支度を急いで始めた。  大学まで援助してくれるなんて最初から期待していなかった。むしろそれがちゃんと分かったのだから、こうやって稼げる時に稼いでおかないと。  一歩外に出れば照りつける日差しと湿度の高い空気に始まり、けたたましい蝉の大合唱。  駅までのそう長くない道のりですら額に汗が滲み、不快指数は最高潮だ。  眉を顰めたまま足早に改札をくぐり抜け電車へと乗り込み、ようやく人心地つく。  冷房の効いた車内。少年を真ん中に両親が座り仲睦まじく笑っている姿を見つめながら、ふと先ほどの父親のことを考える。  大体想定内だったけど、わざわざご丁寧に捨てられるとは思わなかったな。  結局のところあの人の考えていることなんておおよそ理解できないが、再婚に合わせて過去を全部清算したかったのだろうか。愛しい人と新しい土地でいちから幸せな家庭を築くために。 「……再婚ですらねーのかよ」  母との結婚も、凌という存在も全て失敗だったとなかったことにして。  今度こそ愛する人と幸せな人生を歩みたいと思ったのかもしれない。  そう思うと、ほんの少し胸がじくりと疼いた。  けれどそれも仕方のないことだと、凌は親子から逃げるように静かに車両を移動した。

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