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第5話
「あの、それじゃ、上月君は、世界を救うのかな?」
動転して、とてつもなく間の抜けたことを言ってしまった。すぐに後悔したが、彼のような澄んだ目をした名もない美青年が世界を救うなんて映画的で素敵じゃないかと、ちょっと思ってしまったのも事実だ。
上月は俊の馬鹿な発言に呆れるでもなく怒るでもなく、ただ微かに眉を寄せ唇を歪めて見せた。
「何だそれ、ヒーローか? 面白いこと言うな、おまえ」
皮肉めいた苦笑だったが、彼の笑顔を初めて見た俊にとっては相当なインパクトで、鼓動が否応なしに高まるのを感じる。
「別にそんな偉そうなもんじゃない。諦めるのがくやしいだけだ。俺の余命を不可抗力的に、無理矢理決められたくないからな。悪あがきさ」
もっと優雅な微笑でも湛えて穏やかに話せば、その品のある美貌なら洗練された青年華族みたいに見えるだろうに、彼は機嫌の悪そうな口調でぶっきらぼうにしゃべる。でもそれが、初めて彼と会話をする俊にとってはとても新鮮だった。
「わかるな。なんだか理不尽に感じるよね」
「おまえ、笑わないのか?」
「どうして? 応援するよ」
上月は小さなドライバーを持った手を止め俊を一瞬凝視したが、視線をはずしすぐまた作業に戻る。
「おまえ、今は仕事、何してるんだ」
「あれ、もしかして僕のことを覚えてくれてるの?」
「忘れるかよ。本居俊」
フルネームを呼ばれ、嬉しいようなこそばゆいような感覚が体を包む。彼と俊の間には、『忘れるかよ』と言われるほどの深い交流はなかったはずなのに、覚えられていたことが不思議で、正直嬉しさに胸が踊った。
「中学校で教員をしている。母校の中学だよ」
「先生? ふぅん」
彼はたいして興味もなさそうに相槌を打つ。
「僕らのときからそうだったけど、今はさらに生徒の数が減ってね。今は全学年でたった2クラスしかないんだ。学年ごとに教える内容も違うから、クラス全員に同じ授業ってわけにもいかないし、ちょっと大変だよ」
上月は特にコメントせず軽く頷くだけだ。視線は魔法みたいに繊細に動く指先に注がれている。
俊はそもそも話上手ではない。どちらかというと聞き役の方が向いている。でも今はなんとなく沈黙が怖くて、滑稽なくらい一人で話し続けてしまう。
「あの第二校舎の方もね、潰しちゃったんだ。美術室とか音楽室とか、全部第一校舎に移って……そうだ、君がよくいた科学準備室もなくなっちゃったんだよ」
作業に没頭していると思われていた彼がパッと顔を上げこちらを見たので、失言に気付いた。上月がそこで放課後いつも、パソコンに向かって何か打ちこんでいたのを知っているのは、おそらく学校で俊だけだっただろう。
「あ……あの、ごめんね」
「なんで謝るんだ」
「や、それは……」
こっそり見てたから、とは言えない。
「おまえがあそこの廊下で、ドアに付いてる小窓からしょっちゅう中覗いてたことなら知ってたけど?」
「えっ?」
赤くなるのを通り越して、俊は完全に青ざめてしまう。
「ご丁寧に缶コーヒーを2本持ってな。せっかく用意した小道具なんだから使えばいいのにって、俺は思ってたけど。『上月君、随分精が出るね。コーヒーブレイクでもどう?』って、軽く言やぁすむことだし?」
「そ、それ以上いじめないでくれないか」
思わず俯いてしまう。逸らされず向けられる、まっすぐな視線が痛かった。
「でもまぁ、無理だったんだろうな。おまえ生徒会の役員とかやってたし、優等生だったし。俺にはわかんないけど、立場上そういうのも難しかったんだろう」
過去の意気地のなかった自分が、今の自分の足を引っ張っている。彼の濁りのない目に弱さを見透かされていると思うと、消え入りたい気分になった。
「許しては、もらえないんだろうか」
情けない掠れ声が出た。
「許すって何を?」
怪訝そうな声が聞こえた、と思った瞬間、いきなり頬に感じた温かい感触に、全身がフリーズした。あろうことか彼はその右手を伸ばして、俊の頬に触れてきたのだ。彼の手からは爽やかな、ミントみたいな香りがした。
「なんて顔してんだよ。もしかして、泣きそうか?」
「な、泣きはしない」
こちらの動揺も知らずにおかしそうに笑っている相手の顔を、勇気を持って見返す。
「人にはいろいろ守るもんがあるんだろうから、俺は別になんとも思ってない。で、今こうして、おまえが俺に話しかけてきたのは、許されたいからか?」
「違う、そうじゃないよ。僕は君と……君と話をしたかったから、ずっと……」
「ならいいだろう。今からやり直せば」
彼の指は僕の頬をなぞるようにして下り、離れた。その感触を戸惑うほど名残惜しく感じながら、俊は止めていた息を秘かに吐いた。
島の中心にあるキリスト教会の鐘が、8時を告げる。そろそろ、行かなければならない。
学校は夏休みに入っているが、教材研究のために俊は毎日出勤している。世界が終わるかもしれないというのに、判で押したような同じサイクルで。
「帰れよ」
俊の心の動きを表情から読み取ったのか、上月が言った。そして、
「明日もまた来るけど」
と、さりげなく付け加える。
明日も来ていい、ということだろうか。俊は勝手にそう解釈して押さえた箱を未練がましく掴んでいた手を放し、立ち上がった。
「うん。それじゃ、また明日」
思い切ってそう言った自分の声が、どこか弾んでいるのには我ながら驚いた。
『運命の日』を前にして息を詰めている人が大抵なのに、自分だけがこんな浮ついたときめきで満たされていることを、ひどく不謹慎だと思った。
平々凡々な日常に、こんなときになって鮮やかな転機が訪れるとは、まったく予想外のことだった。
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