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第10話
後から追いかけるから先に行っていてくれと言われ、俊は和人より一足早く学校に到着した。
もう少し作業をしていきたいからということだったが、連れ立って歩くところを誰かに見られたら俊に迷惑がかかると思っているのがわかって、胸が少しだけ痛くなった。それでもいいから一緒に行こうと言えない自分にも、なんだかひどく腹が立った。
相変わらず無人の職員室、同僚の机の上は政府発表以前そのままに、教科書や参考資料が乱雑に積み重なっている。まるで全員何かの集会があって、ちょっと席をはずしているだけのように見える。数ヶ月後に世界がなくなるというときに、ちゃんと身辺整理をしていく余裕のある人間など少ないのかもしれない。
ただ逆に、日常を色濃く残したその風景がなんとなく俊を安心させる。明日にでも皆戻ってきて、またいつもの変わらぬ日々が始まりそうな気がするからだ。
でも今はそんな平凡な日常よりも、俊の胸をときめかせてくれる大切なものができた。
形だけいつもどおり机の上に教材を広げながらも、俊はすっかり上の空になっていた。
和人は本当に来てくれるだろうか。彼にとってはいい思い出など何もないこの場所に、来たいと言ってくれたのは、単に俊に気を遣っただけではないのだろうか。
ポーカーフェイスの彼が何を思っているのか俊はいつも読めなくて、会っているときは夢中でも、後になって本当によかったのかといろいろ気にかかってしまうのが常だった。
1時間ほど机に向かっていたがどうにも集中できず、立ち上がり伸びをする。
無人の学校はもちろん冷房もついていない。窓を開けていても温風が吹きこんでくるばかりで、蒸し暑さを助長するだけだ。
閉めようと手をかけたとき、眼下のグラウンドに妙なものが見えた。白い石灰で描かれた大きな絵だ。三角と四角が組み合わさった直線的な絵は、定規を使ったように正確だ。
その絵の横にラインカーを持って立っているのは、間違いない、和人だ。
俊は身を翻し、職員室を飛び出した。階段を一気に駆け下り、和人の元を目指す。
息を切らせ走ってきた俊に和人は驚いたように澄んだ眼を見開いてから、口元にほんの少しだけ微笑を乗せた。
「本当に、来てくれたんだ」
呼吸を整えやっと告げた俊を、和人はやけに楽しそうにみつめる。
「珍しいものを見たな」
「え?」
「廊下は走っちゃいけませんって感じの本居俊が、全力疾走してくるなんてな」
走ってきたせいではなく、俊の頬が赤らむ。
「だ、だって、本当に君が来てくれるとは、思ってなかったから……」
「どうして。行くって言っただろう」
そして右手を額にかざし、絵全体を眺める。
「実は、一度やってみたかった」
「絵を描くの?」
「そう」
なんとなく、気持ちはわからないでもない。大きなキャンバスが目の前にあれば落書きをしてみたくなるという、子供っぽい好奇心だろう。でもそんな少年じみたいたずら心が、クールビューティーの上月和人にもあるとは思わなかった。
和人の描いた絵をもう一度見て、俊は首を傾げる。
「何の絵?」
「ピタゴラスの定理の証明」
現国と古典の教師には恥ずかしながらピンとこなくて、困った顔になってしまう。
「おまえも描いてみろよ」
そう言いながら、和人がラインカーを俊に差し出してきた。俊は反射的に一歩退く。
「ぼ、僕は……」
「いいから。ほら」
無理矢理押し付けられてしまい当惑する。
グラウンドに石灰で絵を描いている生徒がいたら、それがどんな傑作であれ、俊は多分注意するだろう。生真面目で融通が利かない本居先生は、当然自分も規則を破らない。
けれど今、そんな規則にどれほどの意味があるのだろう。誰も見ていないのに、まだ誰かに何か言われるのが怖いのだろうか。
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