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第12話
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単なる日課の一つだった毎朝の散歩が、俊にとってかけがえのないひとときとなった。遥か宇宙の彼方から地球を目指して隕石が落ちてこなければ得られなかった時間というのが、なんとも皮肉だ。
朝公園へ向かう俊の足は、いつも馬鹿みたいに浮き足立っていた。真面目だが面白みがないと評判の本居先生が、今にもスキップしそうな足取りで海岸沿いを闊歩するところをクラスの生徒にでも見られたら、滅亡を前におかしくなったと思われるだろう。
実際、おかしくなっているのかもしれない。
現に俊は最近『Xデー』のことを思っても、以前のように漠然とした不安に心が揺れないのだ。それよりも今日は和人と何を話そうとか、望遠鏡の出来具合とか、そんなことにばかり頭がいってしまっている。
そんな冷静さを失った状態だったので、気付かなかった。二人が会っていることを偶然知り、それを快く思っていない人間もいるということに。
朝海岸沿いの道をいつものように公園へと急ぐ俊は、前方から歩いて来る人物を認め思わず目を見張った。少し猫背になり杖をつきながらゆっくりと進んでくるその人物に、手を振って駆け寄る。
「校長先生!」
俊の呼びかけに校長はハッと顔を上げ、たかが1ヶ月ぶりとは思えないほど懐かしそうに微笑んでくれた。
島でも尊敬されている人格者であり、いつでもしゃきっと背筋を伸ばし力強い瞳で教育論を語ってくれた面影は今はなく、なんだか一気に年を取ったように見えた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
その変貌に痛む胸を隠し、俊は笑顔のまま挨拶する。
「ああ、私はおかげさまで何とか。だが妻があれ以来心を病んで寝付いてしまってね。なかなか家を空けられなかったんだが、今日は少しいいようなので気分転換に出て来てみたんだ」
政府の発表以来、全国的に自殺者が急増した。50%の危機回避の確率は国民がパニックを起こし暴動になるのを避けるためのいわゆる嘘の発表で、本当の命中率は100%なのだという噂がまことしやかに広まったせいだ。
命を絶つまではいかなくとも、来るべき運命に恐怖し精神のバランスを崩してしまう人も後を絶たない。校長夫人は神経の細い人だったから、きっとショックが大きすぎたのだろう。
「そうですか……」
なんとも言えず、俊は俯いてしまう。身近な人の変わり果てた姿や近況に触れ、今この世界が直面している現実を思い出させられ、気楽に浮き浮きしていたのが急に不謹慎に感じられてくる。
「本居先生」
「はい」
見返した校長の顔がどことなく曇っているように感じ、俊は首を傾げた。
「校長先生?」
なかなか口を開こうとしないのを促す意味で聞き返すと、校長は眉根を寄せた顔を思い切ったように上げた。
「3日ほど前、ある人がわざわざ私に知らせてくれたんだが、はずれ家の者を学校に入れて校庭で話していたというのは本当かね?」
全身が凍り付いた。
はずれ家というのは島の最南端の、上月和人の家のことだ。島民は誰もが彼の名を呼ばず、汚らわしい隠語ように『はずれ家の者』と言う。それは島でも人格者として通っている校長も例外ではない。
それにしても一体誰が、あの日の自分達を見ていたのだろう。あれだけ堂々とグラウンドで騒いでいれば人目に立つのも当然かもしれないが、わざわざ校長に密告するとは。
こんな状況下でも従来と変わらぬ閉鎖的な島民根性が発揮されている事実に、俊は憤りを覚えた。だが怒りよりもむしろ、校長に知られてしまったという不安の方が、俊を怯ませていた。
「あ、それは……」
なぜ、認めることをためらうのか。堂々とはっきり答えられないのか。
俊の心にモヤモヤと不快な黒雲が立ち始める。自己嫌悪と言う名の闇色の雲だ。
口ごもる俊を見て、校長はやりきれないといった感じで露骨に嘆息する。
「あまり感心すべきことではないね。君らしくもない」
「あ、あの……どうして、いけないんでしょうか……」
俊はかろうじて、消え入りそうな声で言った。ずっと尊敬し、将来はこんな教師になりたいと憧れていた校長に言い返すことなど初めてだった。
校長は、今さらなぜそんな島の常識を説明しなければならないのかという、厳しい眼差しで俊を見つめてくる。さらに萎縮してしまいながらも、俊はなけなしの勇気を持って相手の目を見返す。
「君はもっと賢明な人かと思っていたよ。生徒にも好かれ父兄にも評判のいい教師である君が、そんな考えなしのことをするとは。こんなご時勢とはいえ、もう少し自分の立場を考えて行動しなさい」
なぜ和人と話してはいけないのかという理由にはなっていなかった。おそらく校長にも説明できないはずだ。
上月和人を排斥することに、正当な理由などあるわけがない。ただみんな、自分より下に位置する生贄がほしいだけなのだから。
世界が終わるというときになっても、校長のような人格者までこんな馬鹿げた約束事に縛られる。島に根強くはびこる体質を、俊は心から嫌悪した。しかしその感情を表には出せず、何一つ反論できずに唇を噛み俯くしかできない自分が情けない。
俊の沈黙を反省と取ったのだろう。穏やかな笑顔に戻り別れを告げそのまま歩き去っていく校長の背を見送りながら、俊は肩を落とし立ち尽くす。
島民の歪んだ選民意識への嫌悪感は、そのまま自分自身へのそれに変わっていた。
なぜ、勇気を出して言えなかったのか。上月和人は排斥されるようなことを何一つしていないではないか、と。そして、自分がすでに彼の友人で、毎日会って話をすることに何の引け目も罪悪感も感じていないと。
――僕は卑怯な臆病者だ。
俊は握りこんだ拳に爪を食いこませる。
島の人間にも和人にも、両方にいい顔をしてみせる。自分を守ることだけに精一杯で、意志が弱く、どちらにも簡単に流される。
――今日の僕は、彼と会う資格はない。
そう思ったが、足は習慣で公園へと向かっていた。
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