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第18話
「上月君……上月君っ!」
両腕で頭をガードしうつ伏せになっている背に、そっと手を置き軽く揺すると、和人は微かに呻いて仰向けになった。さんざん殴られた顔は腫れ上がり唇も切れて血が滲んでいる。服もボロボロに裂け、傷の部分が紅に染まっている。目を覆いたくなるようなひどい状態だった。
和人は切れた瞼を軽くこすって俊を見上げると、安心したように大きく息を吐いた。
「駐在さんは……」
掠れ声が届く。
「来ないよ。僕の芝居だ」
「グッジョブ」
親指を立て笑おうとするが、痛みが走ったのか眉が寄せられた。
「大丈夫? どこが一番痛い?」
和人は平気だと片手を振り、肘をついて上半身をやっと起こした。その背を支えながら、1台だけ残されたバイクに寄りかからせる。
「あー、結構きいた……」
「村瀬先生のところに行こう。ちゃんと診てもらった方がいいよ」
島で唯一の診療所の医者の名を上げるが、和人は弱々しく笑ってまた片手を振る。
「大丈夫だ、自分でわかる。骨は折れてない」
「でも、念のために」
「行っても診てくれない」
「どうして?」
「俺は、診てもらえない」
一瞬、心が石になったように冷えた。
いくらなんでもそんなはずないと思う気持ちは、そうかもしれないという絶望を伴った悲しみで覆われた。
「俊、おまえは? 大丈夫なのか?」
「僕は全然平気。君のおかげだよ」
「相当みっともないところ見せちまった。数字には自信はあるが、ケンカは専門外でな」
「みっともなくなんかない」
「色男金となんとかは、って言うだろう。あれだな」
「自分で言うなよ」
「いざってときに大事なものを守れるくらいの強さは、やっぱり欲しいよな」
そう言って悔しそうに唇を噛む和人の顔を見ていたら、俊の中で得体の知れない激しい感情が急速に高まってきた。恥ずかしさと情けなさ、怒りと悲しみ、そんなものがごっちゃになって溢れ出し、俊は手元の砂をギュッと握りこんだ。
「強さって何? 腕っぷしのこと? 僕はそうは思わない」
溢れ出ようとする感情は、今言葉にして外に出さなければ爆発してしまいそうなほどの熱を持っていた。
「本当の強さっていうのは、自分にはできないって、ひどい目にあうだろうってわかってるのに、それでも飛びこんでいける勇気なんだ。現に君は、僕を救ってくれたじゃないか。君は強い。僕はそれをよく知ってる」
「それじゃ、俊も強いな」
「え……」
「俺を助けるために、がんばって大声出してくれただろう。おまえも強かった」
テンションが上がってしまっている俊の肩を、落ち着かせるようにポンポンと叩く大きくて優しい手。和人に触れられるのは初めて公園で会話したとき以来で、久しぶりのぬくもりが伝わり、胸が切なく疼く。
ひどく傷付いているのは彼の方なのに、こっちが慰められてどうするんだと思う。もどかしくて、でも何もできない自分が情けなくて、俊はただ俯く。
「なぁ、あれ、そうだろう?」
そう言って和人が指差した先に、ゴミくずみたいなものが落ちている。
忘れていた。読んでもらおうと持ってきた絵本だ。
「読ませてくれるんだろう? 取ってきてくれよ」
俊はためらった末立ち上がり、数メートル先の波打ち際にボロ雑巾みたいに転がった本を拾いにいった。未熟ながらも気に入りの作品は踏み付けられてところどころ破れ、端は少し波に濡れてしまっていた。
悲惨な状態のそれを渡すのを躊躇していると、自分から手を伸ばしてきた和人に呆気なく取り上げられてしまう。俊は覚悟を決め彼の隣に座る。
「ルックの旅立ち」
和人はタイトルを読み上げながら、本についてしまった砂を丁寧に払い、ページをめくった。あろうことかいきなり爆笑される。
「随分個性的な絵だな! この熊なんか、かなりユニークだ」
「猫だよそれ」
「おっと、それは失礼」
和人はちょっとふくれる俊の頭をポンと撫で、長い指で絵の猫をたどる。
「や、でもおまえの絵、いいな。味があって、なんとなく温かい」
ほとんど日は落ちてしまっていたが、まだぎりぎり大きな文字を読める暗さだった。
和人は丁寧にひらがなばかりの行を指でたどりながら朗読し始める。
「ルックは穴倉の中で暮らしていました。ルックにはともだちがひとりもいませんでした」
自分の書いたものを横で声を出して読まれるのは、なんともいたたまれない。だが和人の朗読はとても上手で心地よく胸に響き、作品を実際より5割増くらいいいものに感じさせてくれる。
俊は膝を抱えたまま俯き、綺麗な音楽みたいなその声をじっと聞いていた。静かな波の音がBGMになり、うっかりすると眠ってしまいそうな心地よさに身をまかせる。
「……そうしてルックは森から出て行きました。外の世界は、ルックのはじめて見るまぶしい光であふれていました。おしまい」
和人は最後まで読んでしまうと、大事そうに本を閉じた。
「下手くそでびっくりした?」
言われる前に、こちらから言ってしまった。いわゆる童話大賞などで入賞するものなどと比べると、自分の作品が箸にも棒にもひっかからない予選落ちのレベルであることは、俊にもよくわかっていたのだ。感想を求められても、誰だって困るに違いない。
ところが和人は即座に言った。
「これ、俺はかなり好きだな」
「嘘だよ」
「どうして。俺はそういう嘘は言わない」
そうだ。わかっていた。彼が好きだと言うのなら、それは本当に気に入ってくれたということなのだ。
「具体的な感想みたいなのは、うまく言えないけどな。話全体がすごくおまえらしい感じがする。ホッとするんだな、なんとなく。それに、やっぱり絵だ。ユーモラスでほのぼのとしてる。ド素人の俺が見てこれだけいいと感じるんだから、自信持っていいぞ」
ここも、この絵もいい、と言いながら、和人は嬉しそうにページをめくり、丁寧に指で絵の輪郭をなぞっていく。
嬉しいのと恥ずかしいのと半々で俊はほとんど顔を上げられなかったが、何かとても温かいものが接している腕から少しだけ伝わってきた。
俊を心から安心させて、同時に甘い混乱ももたらすそれは何なのだろうと考えると、たまらなく胸が引き絞られた。
「読ませてくれて、ありがとうな」
ひと通り感想を述べてから名残惜しそうに差し出された絵本を押し返し、「それあげる」と俊はそっぽを向いたまま言った。
「えっ?」
「いらなきゃ捨てて」
反応を横目で盗み見た。
和人は澄んだ目をじっと本の表紙に向けていたが、ボロボロになったそれを両手で大事そうに胸に抱いた。
「一生の宝物にする」
そうつぶやき、本当に嬉しそうに、
「この島に来て、人から何かもらったのは初めてだ」
と言って笑った。
急に、目の奥が熱くなってきた。意思とは関係なしに涙は溢れてきて、おかしいほどに止まらなくなった。
「僕は……君の家に落書きした犯人を捕まえる!」
言い切って、俊は両手で抱えた膝に顔を埋めた。
「絶対、許さない……! 絶対に捕まえてやるんだ!」
最後の方は、みっともなく涙声になってしまった。
俊が泣いているのはわかったはずなのに、和人は何も言わなかった。ただ温かい手が、いつまでも優しく背を撫でてくれていた。
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