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第23話
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なんだか体がゆらゆらしている。舟に揺られているみたいな気分だ。
ぼんやりと見えてくる景色。俊は遠い異国の小さな舟で、ゆっくり河を下っている。
ゴンドラに乗っているのだ。
子供の頃テレビで見て、一度乗ってみたいと思っていた。島の中しか知らなかった俊が、どうやらこんなに遠くにまで来られたらしい。
周囲を見渡す。河岸には白い壁のエキゾチックな家々が並び、異国の人達が窓から手を振ってくれている。
正面を向くと、和人がいる。2人に向かって親しげに手を振ってくれる人達に、和人も嬉しそうに手を振り返す。
――ここではみんなが、彼を受け入れてくれてるんだ……。
振り向き笑いかけてくる和人に、俊も笑顔を返す。
なんだか、とても嬉しい。
そう、こんな世界を見たかった。
彼と2人で、こんな、外の世界の風景を……。
幸福な景色が遠ざかっていき、ゆるやかに戻ってくる意識と共に、俊は目を開けた。
見慣れないアイボリーの天井と、落ち着いたブラウンの壁が視界に映る。
壁には淡いグレーのレインコートがかかっている。俊の着ていたものだった。
「気が付いたか」
声の方を見た。和人が夢の中とは対照的につらそうな顔で覗きこんでいる。
「あれ……? 僕……」
俊はやけに重たく感じる上半身を起こした。ズキリと痛んだ手を見ると、綺麗に包帯が巻かれていた。
寝かせられているのは、おそらく和人のベッドだ。
「少しの間意識を失ってた。疲れとか緊張とか、多分そういうのだろう」
サイドテーブルに置かれた時計は、すでに零時半を指している。1時間以上失神してしまっていたらしい。
倒れた理由は、疲れと緊張よりむしろ安堵だろう。
絶望的な不安の中、和人の声が聞こえしっかり抱き締めてくれたとき、俊は心からホッとした。冷え切った体を包んでくれた腕の熱さが蘇り、抑え込もうとしていた許されない甘い感情が心の奥底でわずかに揺れる。
「上月君……あの……」
しかし見上げた相手の顔は、怖いくらい険しい。怒っているのだ。
「おまえどうしてあんなところに行ったんだ。こんな日に、危ないだろうが」
「それは……望遠鏡が気になったから。上月君はどうして?」
「おまえと同じだ。まさか、おまえが先に来てるとは思わなかったけどな」
「それで、望遠鏡は? どうなった?」
勢いこんで聞く俊を呆れ顔で見、嘆息してから和人は首を振る。
「あれはもう駄目だ。亀裂から、中まで雨が入りこんでるだろうしな。ここまでひどい天気になることを考えてなかった、俺のミスだ」
「そんな……」
ショックで言葉を失う俊より、当事者である和人の方がよほど平然としていて、
「また1から作り直せばいいだけのことだろう。時間はかかるが楽勝だ」
と、サラリと言い切る。
――でも、『Xデー』にはもう間に合わない。
言葉にはせず、俊はそっと唇を噛む。
「僕は……君を助けるどころか、迷惑をかけてしまったのか」
「何?」
「僕が情けなく気を失ったりしなきゃ、君は望遠鏡を運んで修理できたかもしれない。僕をここまで運んでくれる手間がなかったわけだから」
「あのな、それを言うなら心配かけたことの方を謝れよ」
「うん……ごめん……」
俯き手元をみつめていると、包帯を巻かれた手の上にそっと和人の手が重ねられた。傷とは関係ない甘い痛みにズキンと疼く。
顔を見られなくて、俊は視線を伏せたまま、ただその綺麗な指だけをじっとみつめる。
「ありがとうな」
和人はそう言った。口調はとても優しかったが、俊は戸惑う。
「どうしてお礼なんか」
「あれを守ろうとしてくれただろう」
「でも、結果的には、何も……」
「結果はどうでもいい。大事なのは気持ちだ。俺は嬉しかった」
そうなのだろうか。何もできなくても、本当にあれでよかったのだろうか。
「あのとき、言っただろう。俺はもういろんなものをおまえからもらってるって。絵本も、その一つだけど」
「あんなの……」
「あんなの言うな、俺の宝物を。それと、他にも。もっとすごい大事なものをもらってる。だから、それだけで……」
和人はらしくなく言いよどんでから、きっぱりと告げる。
「それだけで、もし万が一悪い方に転んでも、俺は後悔しない」
俊は驚きに目を瞠る。
和人がこれだけはっきりと、悪い結果の方を口にしたことは初めてだった。
誰もが考える確率50%の絶望的な未来を彼は弾き飛ばし、常に明るい方だけを見据え動じない強さを持っているのだと思っていた。
だが違った。彼も不安だったのだ。その不安をしっかりと内に閉じこめ鍵をかけ、表には出さなかっただけで。
「俺の人生の総決算は、おまえのおかげで最後プラスになった。だからいい。きっと『その瞬間』まで、笑って逝けると思う」
乗せられた和人の手が、俊の傷付いた手を軽く握った。
「感謝してるぞ」
まるで別れのような一言と共に、その手はあまりにも呆気なく離れる。驚くほどの喪失感に、俊は唐突に泣きたい気持ちに襲われる。
和人が椅子から立ち上がる気配がした。
「今夜はここでそのまま寝ていけ。明日、天気が落ち着いたら送っていってやる」
離れていく影。
――行かないでほしい。
そう思ったら急に、島の常識どころか全人類のモラルなどというものまで無視した激しい感情突き上げ、意気地なく震える唇からかろうじて声が零れた。
「待って……」
去っていこうとしていた気配が留まった。
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