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夜、仕事を終えて帰ろうとした時に電話が鳴った。知らない電話番号だった。
でると「広瀬さんですか?」と弾んだ声がした。「枝川です。今日、3人展にいらしてくださったんですね。わざわざありがとうございます」明るく、妙に親しげな声だった。
ふと、北池署のときに上司から、よく知らない相手に個人の連絡先を書いて渡すな、と言われたのを思い出した。先輩たちが平気でやっているのでいいのかと思い真似していたのだ。しかし、その後、渡した相手から電話が頻繁にかかってくるのを見て、うるさいと思ったのだろう、注意された。その時の電話の相手の声の調子に似ていた。なれなれしいの一歩手前くらいだ。なんだか奇妙な感じがした。
そうは言っても、こちらから連絡して欲しいといったのだ。広瀬は枝川がいる場所を聞いた。そして、枝川が指定してきたレストランで待ち合わせることになった。
そこはこじんまりとしたイタリアンだった。若い夫婦が二人で切り盛りしている。狭くて活気のある店だった。
枝川と詩島は既にきていた。隣同士で腰掛けて親しそうに話している。エージェントっていってたけど、恋人同士なんだろうか、と広瀬は思った。
広瀬に気づき、二人は立ち上がった。枝川は笑顔だ。彼はややぽっちゃり気味で、顔が健康的につやつやしている。目が小さくて優しそうだ。正直な感想として、青キヨラのようなファンクラブはできそうもないな、と広瀬は内心思った。友人はこの人の方が多そうだけど。
枝川は広瀬に正面の椅子を勧めた。彼は、メニューを示し、早くできるものと量が多いものを教えてくれた。
「ここはなんでも美味しいんですよ」と枝川はいった。「お仕事中ですか?お酒は?」
「今は仕事ではないので」と広瀬は答えた。
「ワインでもいいですか?ウイスキーの水割りはないんですよ」枝川は笑顔でいる。「普段は水割り飲むんですよね?」そういいながら彼はお店の人を呼んだ。そして、注文を出した。
広瀬は答えられなくなった。いったい自分について何を知っているのだ。
料理とワインを待っているあいだに、彼が言ってきた。
「東城と一緒にくればよかったのに」
「え?」
「東城です。彼、昨日展示を見に来てくれたんですよ。さっと来てさっと帰ってしまいましたけど」
そこで、やっと状況がわかった。そういえば、東城は地図の絵のことを友人が描いたといっていた。東城が彼に自分のことを話したのだろうか。
ワインが来たので勧められた。
「今日、広瀬さんが来てくれてほんとうにうれしいですよ。名刺置いてくださってよかった。会えなかったら本当に残念だったから。この前の地図の絵、気にいってくださいましたか?」と枝川は言った。
「はい」と広瀬は答えた。
どうやら、枝川は自分の作品をみに広瀬が展示会に来たと思っているようだ。ここは訂正すべきなのかどうか迷うところだ。詩島の方を見ると彼女も半分くらいは誤解しているようだ。警察の人間が何かを聞きにきたというよりも、枝川の友人の知り合いがもらった絵を気に入って、他の作品を見に来るほうが理解しやすいのだろう。
料理が運ばれてくる。推薦どおりボリューム満点だった。東城は自分に関するどんな話を枝川にしたのだろうか。
「あの、3人展は青キヨラから誘われたと聞きました。枝川さんは青キヨラと親しいんですか?」
「そんな、親しくはないですよ。先生は売れっ子だから。でも、まあ、僕の作品はよく見に来てくださいますけど。仕事を紹介してくださったり、恩人の1人です」
「そうですか」広瀬は逡巡したが、やがてタブレットを取り出し、写真を見せた。技術書の会社にあった絵と飲食店のシステムの会社のパンフレットにあった絵の写真だ。
「これ、青キヨラの絵でしょうか?」と単刀直入に聞いた。そもそも枝川がそういったことがわかるのかどうかも不確かだったが。
枝川はしげしげと写真を見た。大きくしたりしている。そして、自分の足元においていた鞄から冊子をごそごそと取り出す。青キヨラの作品の写真集のようだ。表紙は青キヨラが何やら悩んでいる顔をしている写真だ。自分の作品の前ではなく、ジャングルみたいなところを背景にしていた。
枝川はその写真集と広瀬の見せた写真をなんども見比べている。
「僕は鑑定する人間ではないですし、直接絵を見ないとわかりませんが、先生の絵だと思います。どこでこれを?」
「訪問先の会社の応接室です」
「そうですか。これ、いつ買ったかはわかりませんが、これくらい大きくて完成度が高いとちょっとした財産になるかもしれませんね。でも、不思議な気がします。これはそんなに前の作品のタッチではないんですが、流通にはでていない」
「どういうことですか?」
「昔の作品でしたら、とっくに先生が売っていて、その後は個人同士の売買でどこにあるのかわからない、ということもあるでしょうけど、これはここ数年の絵のようです。でも、この作品カタログにはないってことは、普通の流通にはのらなかったっていうことです。個人同士で売買されたということです。先生の絵は人気だから、そういうこともあるのかもしれないですけど、そんなに色々描くほど時間があるのかどうか」
枝川はタブレットを広瀬に返してくれる。「この写真、どうして、全体像と一部だけなんですか?この一部だけとりだしたのにはなにか意味があるんですか?」
「同じ絵、ですか?」広瀬は聞き返した。タブレットを見る。数値的には類似度は85%だった。同じ画家が見ると確信がもてるのだろうか。
「この2枚、同じ絵ですよ」と枝川は教えてくれた。「ほら、ここのところの色使いとか、筆遣いが同じでしょう」
「似ていますが違う絵の可能性もあると思っていました」
「同じだと思います。どうして違う絵だと?」
「別々な部屋の写真だからです」
「じゃあ、どちらかからどちらかに売ったか贈ったかしたんでしょうね。青キヨラ先生の絵は、投資としてもいいものですし」と枝川はうなずいた。
飲食店向けシステムのオールシステム社の社長が、写真を撮影したのはいつだったのだろうか。その撮影の後、写真は技術書の会社に移ったのだ。
「青キヨラの絵はどんな人が買うんですか?高いんですよね」
「そうですね。絵を買う人はそれぞれですよ。法人も個人も買います。海外の購入者も多いんじゃないでしょうか。先生の絵は先ほどもいいましたように投資目的で買われることも多いです」
「彼が売れ出したのは、いつごろですか?」
「10年くらい前ですかね。特に賞をもらったりしてもいなくて、突然海外で注目されたので、センセーショナルだったんですよ。当時はやっかむ人も多くて。でも、すぐに実力が認められましたけど」
「枝川さんの作品はどんな人が買うんですか?」
枝川は声をあげて笑った。彼は横に座っている詩島をみた。「どんな人が買うんですか、辰巳さん?」
「個人の方が多いです。気に入っていただいて」と詩島がためらいながら答えた。
枝川はまた笑う。「今日の展示会の作品のようなものは、正直なところあのままでは売れないんです。ああいった作品をみてくれた方が声をかけてくれたりして、個別に注文受けてそれに応じて作るんですよ。自分で好きなものを描いてそれが飛ぶように売れるということはありません。だから、あれもできます、これもできますっていろいろな手法をみせているわけです」と解説してくれた。
「そうですか」と広瀬は答えた。「青キヨラもそうなんですか?注文をうけて作るということが?」
「そういったお仕事も多いと思います。もちろん、作品もよく売れますけど」
「だとすると、この絵は誰かが依頼して描いてもらったということはあるわけですね」
「そうです。でも、これなら、わざわざ注文して描いてもらわなくても、とは思いますがね。先生がよく描かれるタイプの絵ですから」と枝川はこたえた。「だからこそ特別に描いてもらったというのもあるかもしれませんが」
そして、ふと言った。「広瀬さんが持っている地図の絵は、僕が好きで作ったんです。それをうちに遊びに来てた東城が見てて、1つもっていっちゃったんです。額縁は自分でそろえてもらいましたけどね」
「東城さんは、枝川さんから絵を買ったんじゃないんですか?」あきれてしまう。いくら知り合いだからといって対価をきちんと払うべきだろう。
「まさか。彼からお金をもらったりはできません」と枝川は大げさなくらい手をふる。「東城とは、中高と学校が一緒で、親友なんです。もっとも彼はほとんど学校には来てなかったですけど」と言った。
思わず聞き返してしまった。「不登校だったんですか?」意外だった。引きこもりだったのだろうか。どちらかというと学校ではりきって騒いでいそうなタイプなのに。
「ああ、不登校。そう言われればそうとも言えるのかも」と枝川は面白そうに答えた。
枝川は食事を続ける広瀬をにこにこしながら見ている。
「青キヨラ先生、紹介しましょうか?」と言われた。「先生はなにかの事件に関係しているんですか?」
広瀬は首を横に振った。「そうではないです。たまたま見た絵のことが気になっただけです。できればよくいらっしゃる住所か連絡先は教えていただけますか?枝川さんの迷惑にならないように、接触してみます」
枝川はうなずいて自分のスマホを操作し住所と電話番号を見せてくれた。広瀬はメモをとり礼をいった。
「よく海外にいるから、先に電話したほうが確実だと思います。電話は僕から聞いたといってもらってもいいですよ」
「枝川さんのお名前はだしません」と広瀬は答えた。
「そうですか」と枝川は言った。
食事が終わった後で彼は言った。「広瀬さん、今度、時間があったら、僕のアトリエにきてもらえませんか。できれば、あなたのイメージの作品を作りたいんですけど、だめですか?」
広瀬は、しばらく考えた。だが、枝川の人のよさそうな笑顔に断れずうなずいた。
「伺うのはかまわないですけど、ここのところ時間ないんです。それに、俺、そんなに長い時間じっとはしてられないと思います」
「モデルさんみたいにじっとしていてくれなくてもいいですよ。長い時間とらせないので写真や映像を撮影させてください。僕、ずっとあなたに会ってあなたの作品を作りたかったんです。最近の東城ときたら、僕のところに遊びに来て話すことといえば、あなたのことばかりだったから、どんな方なんだろうって思ってたんです」そう言われた。「ちょっと想像していた方とは違っていました。いい意味で。本当に時間があるときでいいですよ。東城と一緒に遊びにきてもらってもいいです」
枝川とは店の前でわかれた。
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