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昼休みの時間に広瀬は、枝川に教えてもらった青キヨラの事務所に向かった。場所を見たかったのと、もし、運がよければ彼に会えるのではないかと期待したのだ。
事務所は川沿いにある低層のマンションの1階だった。隣は小さな電気工事の会社だ。特に看板をだしているわけでもなく、ブラインドが下ろされて中はみえない。新進気鋭の画家の事務所とは思いにくい場所だった。
暗そうな屋内を覗き込み何も見えないのを確認した後、広瀬はインターフォンを押した。
しばらくして、くぐもった声が返ってくる。
「はい」
インターフォンのカメラ越しにこちらを見ているようだ。
広瀬は名乗った。身分証をカメラに向かって見せた。
「なんの御用でしょうか?」と怪訝そうな声だ。
「絵のことでお伺いしました。お時間はとらせません。ご協力をお願いしたいのですが」と告げた。
また間があく。そして、プツっとインターフォンが切れた。このまま無視されるかな、そうしたらもう一度インターフォンを押すか、と思いながらしばらく待った。
ブラインドがシュルシュルとあげられて、ガラスのドアがでてきた。奥に向かってあけられる。
灰色の工事の人がきる作業着のような服を着た男が立っていた。がっしりしていて髪が日に焼けて茶色になっている。30代後半だろうか。日焼けサロンで焼いたのとは違う、外で仕事をしている人の様子だ。
作業着には、絵の具が少しついていた。青キヨラの関係者なのは確かなようだ。絵画とは全く縁がないような風情の男ではあったが。
「どうぞ」と男は言った。インターフォンで応対してくれた声だった。やや眠そうな感じだ。
事務所には絵がかけられていた。青キヨラの、あの、ごちゃごちゃした色の絵だ。抽象画だけでなく、風景画もあった。どこかの港の船が並んでいる絵や、朝日が昇ろうとしているところもある。
事務机が3つほど並び、パソコンが置いてある。
応接セットもあった。男は広瀬に椅子を勧めた。
「なんですか?」と聞かれる。
「ここは、青キヨラさんの事務所でしょうか?」
「そうです」と答えられる。
「失礼ですが、あなたは?」
「社長です」そういいながら男は名刺をポケットから出した。「青キヨラ事務所」の代表取締役社長となっている。名前は青山克己と書いてあった。青キヨラの本名は青山なのかもしれない、と広瀬は思った。この社長は親族なのかも、写真で見た青キヨラとはあまり似ていないが。
「エージェントなんですか?」と聞いた。詩島がいっていたようなやり手のエージャンととは思えないが、人は見かけによらないのかも。
「まあ、いろいろやってます」と社長は答えた。「先生に用事ですか?」
ここで先生といわれるのは青キヨラしかいないだろう、と広瀬は思った。
「はい。いらっしゃいますか?」
いなさそうだ、と事務所を見回して広瀬は思った。ところが、「いますよ」と言われた。「この建物の上も使ってるんですよ。作業したり、寝泊りすることもあります」
ああ、そうだったんだ、と思った。
男はだまっている。
しばらくの沈黙の後で、「あの、先生と話はできますか?」と広瀬は聞いた。
「できますよ。先生がいいって言ったらですけど」
「お願いしたいんですが」
男はまただまった。そして、「何の用事なんですか?」と聞いてきた。
「先生が描かれたと思われる絵のことでお話を聞きたいんです」
「どんな絵のことですか?」
広瀬はタブレットを表示させ、絵を男に見せた。技術書の会社でみた絵のほうだ。
「これです。これは、先生が描かれたものではないですか?」
男はタブレットに顔をよせた。じいっと見ている。そして、顔をあげた。「そのようですね。これが、なにか?」
「ある会社さんの応接室に飾ったあったんです。この絵がどうしてそこにあるのか知りたくて」
「それは、その会社に聞いたほうがいいんじゃないんですか」と男は言った。
「そうとは思いますが、最初にどちらに売られたのかがわかると手がかりになるかと思いまして」
男は再度タブレットの絵を見る。
「社長さんは覚えておられますか?」
彼は首をかしげた。「この手の絵はいっぱいあるから」と言っている。「いつごろ描いたものかは本人でないとわからないでしょうね」
意外だった。青キヨラの絵をマネジメントしている会社の社長なら、どの絵のことも熟知していそうなものなのだが、この男はそうではないようだ。
彼は、いいわけのように言う。「先生は多作なんですよ。本人以外、全部は覚えられませんよ」
そういってポケットから電話を取り出すとかけはじめた。出た相手に警察がきていて、以前描いた絵のことで質問に来ている、と告げている。
話し終わると彼は広瀬に言った。
「降りてきますよ。少し待っていてください。お茶でもいりますか?」
「いえ、お気遣いなく」と広瀬は言った。
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