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広瀬は、自分の後ろ手を縛っているロープを動かしてみた。わずかに手は動く。船室は暗かったが、だんだん目も慣れてきてぼんやりとだが、室内がわかる。何もなさそうだったが、隅の棚には何かありそうだった。
近づいてみるとペットボトルが数本床においてあり、棚には、缶詰や缶ビール、レトルトのカレーやご飯パックがあった。
広瀬は缶詰を後ろ手でとり、蓋を指でさぐった。あけることができるだろうか。
指先がつりそうだったが、何とか開けることができた。蓋の端をロープに当ててみる。何度か手も切ったが、気にしている暇はなかった。ゆっくり冷静にと自分に言い聞かせながら、ロープを切っていった。一度、プチッと感触があって切れると後は簡単だった。力を入れて、ロープをふりほどいた。
手が自由になると、広瀬は、村井の手と足を縛っていた紐を解いた。
「村井さん」と広瀬はふたたびぐったりしている村井に話しかけた。「ここを逃げます」
村井は動いた。「しかし、どうやって?ここは海の上だろう」
「おそらく、運河沿いだと思います。まだ、それほどの距離は走っていないはずです。彼らを取り押さえます」
広瀬はペットボトルの蓋をはずした。お茶だったので、村井に飲ませ、自分も飲んだ。残りは床にあける。床はビショビショになったが、気にしなかった。3本の空のペットボトルができた。
「村井さん。万が一、どうしても、逃げる必要が生じたら、運河に入ってください。運河では、背中を下にして力を抜いてください。このペットボトルをおなかにかかえていれば、沈むことはありません。泳ごうとかしなければ、浮いていられます」
村井は広瀬に空のペットボトルを渡され、明らかに動揺していた。
「しかし、溺れてしまう。それに、私は怪我をしているんだ」
「大丈夫です。今のは最悪の事態のときのことを言っているだけです」ととりあえず安心させられるようなことを言ってみる。
だが、本当の最悪というのは自分の意思で海に飛び込むことではない。死体になって海に落とされる、または海に落とされて死体になることだろう。
広瀬は、棚にあった缶ビールをつかんだ。これは武器になりそうだ。靴下を片方脱いで中にいれた。
そして、船室のドアをバンバンと蹴った。ドアは鍵がかかっているが、もともと頑丈なつくりではないだろう。ぐらぐらしている。開くかもしれない。しばらく続けていたら、ガチっと音がした。開きそうだ。
そう思ったら、ドアノブが回り、扉がゆっくりと開いた。「うるさい。そんなに早く死にたいのか」と社長の乱暴な声がした。
広瀬は、靴下に入れた缶ビールを勢いをつけて振りかぶると、ドアのむこうからこちらをみようとする顔に力いっぱい当てた。そして、相手が、顔を抑えて後ずさったところで、腹を前蹴りする。手に持ったナイフも蹴って下におとさせた。
社長は、顔と腹をおさえて動けなくなった。ダメージはそれなりにあるはずだ。暗闇の中、広瀬はナイフを手探りで見つけた。ナイフを手に取り、社長を見下ろす。まだ、うずくまっているが不用意に近づかないほうがいいだろう。こちらにはナイフがあるが、社長の方が体格は広瀬よりいい。不意打ちだったから有利に展開できたが、これからは別だ。それに、まだ、青キヨラがいる。
「村井さん」と広瀬は船室にいる男を呼んだ。「動けますか?」
村井はうめくように返事をしてきた。頼りにはならなさそうだ。
広瀬は、慎重に社長の近くに行った。
騒ぎが聞こえたのだろう、少し離れた操舵席から、人影がでてきた。青キヨラだ。広瀬はナイフを社長に向けて、相手を制した。
「動かないでください。こちらはナイフを持っています」
船が揺れ、広瀬は身体のバランスをとる。青キヨラも姿勢を崩し、フラッとしていた。
「どうして、近藤さんを殺したんですか?」と広瀬は聞いた。
「近藤?」と青キヨラは不思議そうに聞き返してくる。
「この船から、運河に沈めたのはあなた方ですよね?」
しばらく黙った後、青キヨラはうなずいた。「ああ、あの男ね。近藤って名前だった?」と聞かれる。「あんな男のことは、すっかり忘れてたよ」静かな声だ。だが、本当に忘れていたのかどうかはわからない。
「どうして殺したんですか?」
青キヨラは答えなかった。彼は、広瀬の方を向いたままだ。
横たわっていた社長が息を吹き返してきたようだ。少し動いた。このままではまずいな、と広瀬は思い始めた。
しばらくして、青キヨラは笑いはじめた。狂気じみた笑いとはこういうものだろう。空虚な意味もない笑いだった。何が面白いのかは、他の誰にもわからない。本人だけにしかわからない。
「あの男はね、僕に言ったんだ。一緒に、訴えようって。僕の絵は利用されているんだって」画家は笑っていた。「誰かが僕の絵を使って、悪い取引しているって。なんにも知らないでね。なあんにも、だ」青キヨラは繰り返しそう言った。何度も何度も、近藤が何も知らなかったと言っていた。
何を知らなかったから、近藤を殺したのだろうか。
社長がまた動いた。意識が戻るのだろう。広瀬はナイフを構えた。このまま、青キヨラをどうやって取り押さえようか、考えをめぐらせた。
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