52 / 71
52
大井戸署で、広瀬はシャワーを浴び、着替えた。
高田と課長も署に戻ってきていた。広瀬は、げっそりしている高田や他の大井戸署の捜査員に何度も今日の経緯を聞かれ、記録をとられた。
船に乗っていた他の3人は全員入院した。村井は刺されていたし、社長は広瀬がなぐったため鼻の骨が折れていたらしい。青キヨラは少し火傷があり、溺れたため未だに意識がないらしかった。意識が戻れば事情聴取が行われていくだろう。
大井戸署に戻って何時間もたった頃から、広瀬はぐったりしてきた。緊迫した中で大量にでていたアドレナリンがなくなったためだ。
高田は、広瀬に、今日は帰っていいと言った。
「お前を探して事情を聞きたがっている奴もいるみたいだから、気をつけろ。これは、大井戸署のヤマだからな」と言われた。
宮田が言っていた、本庁や県警、海上保安庁のことだろうか。
それとも、朝のニュースで船の火災事故がとりあげられていたらしいから、マスコミだろうか。
いずれにしても、誰が現れても相手にするような気力はないだろう。
広瀬は、そう思いながら大井戸署を出た。
とぼとぼ歩いて駅の近くまで来ると、急に、黒い大きな車が自分に寄せてきた。全身を固くしてそちらを見る。運転席から東城が顔をだしてきた。
広瀬は、何も考えず、助手席に乗った。
息を大きく吐く。
東城が自分を優しそうな目でみていた。ハンドルにかかる大きな手や広い肩に触れたいと思った。彼の体温を感じたかった。でも、そんなことをしたらすっかり崩れてしまいそうだったから、前を向いて椅子の背に身体を預けた。
東城は、広瀬がシートベルトを締めるのをまつと、静かにアクセルを踏み、すべるように発車した。
「俺の家に」と広瀬は東城に告げた。自分のアパートで、ゆっくりしたかった。
東城はうなずいて、ハンドルをきり、広瀬のアパートに向かってくれた。
「この車は?」と広瀬は聞いた。
見たことのない車だった。国産の最高級車種のセダンだ。また、実家の車なんだろうか。何台持っているんだろう。
「俺の車の鍵交換してもらうよう頼んだら、後ろの方こすったあとがあるらしくって、それもついでに直してもらうことになったんだ。そしたら、ディーラーにこの車おしつけられた。ぜひ試してほしいって。こんな車買うわけないのに。俺について誤解があるみたいなんだよな」と東城は言った。
東城の車の後ろの方をこすったのは自分かもしれない、と広瀬はぼんやり思った。あの車は大きくて、駐車するのがやっかいなのだ。だが、東城の口調には広瀬を責める様な様子は少しもなかった。広瀬がやったとは思っていないのだろう。
そんなことよりも、と東城は言った。「最初に、海に落ちた奴がいるって情報が入って、びっくりしたよ」と東城に言われた。「まあ、落ちるんならお前だろうなとは思ったから、第二報でお前だって情報がきても、そんなに驚かなかったけど」
東城たちの捜査もやや進展があったらしい。そして、ずっと休んでいなかった東城はとりあえず帰れることになったのだ。広瀬が大井戸署にいると宮田から聞き出し、迎えに来たと言っていた。
東城の運転する車の中で、広瀬は、東城に質問されるままにポツポツと回答した。
東城のマンションから出て今までの全てを答えた。クルーズ船の会社に行ったこと、予約した若い男にあったこと、技術書の会社のこと、青キヨラの事務所、漁船。本当は口を利くのもおっくうなくらい疲れていたが。
逆に、広瀬は東城に質問をした。USBメモリーはどうなったのか、産業スパイの組織はわかったのか。東城も、かいつまんで広瀬に説明をしてくれた。東城の声はいつもと同じで低く穏やかで、広瀬を安心させてくれた。
アパートにつくと広瀬は重い足で外階段をあがった。疲れきっていてゆっくりしか動けない。頭がふらついている。
「広瀬、大丈夫か?」
後ろから心配そうに声をかけられる。広瀬はうなずこうと思い振り返った。
そこでバランスが崩れた。めまいがしたのだ。足がもつれた。身体が浮いたような気がする。
落ちる、と思ったがその先は記憶がほとんどない。痛みがなかったのは東城の上に落ちたせいかもしれない。彼が自分の名前を何度も呼んでいたような、そうでなかったような、全てが黒い闇の中になり、なにもわからなかった。
ともだちにシェアしよう!