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頭がぼうっとしている中で、会話が聞こえた。時々眠くて意識がなくなるため、内容もところどころとんでいる。 優しそうで落ち着いた年配の女性の声と東城の声だった。 「弘ちゃん、だからね、何度も言うけど、この人は、眠っているだけよ」 「じゃあ、なんでいつまでも意識ないんだよ」と東城の声だ。わがままな子供のような口調だ。「CTだかMRIだかで検査もしてないのになんでわかるんだよ」 「私の診療所にはCTもMRIもないわよ。美音ちゃんの医療センターに行かないと」 「じゃあ、搬送しなくていいの?」 「必要ないと思うけど」 「でも、検査しなくてなんで大丈夫ってわかんだよ」 はあ、っと小さなため息がする。 「わかります。弘ちゃん、こっちはプロの医者なのよ。起こすのが気の毒だから起こさないだけです。必要と思ったら画像診断の手配はします。この人はね、今、ぐうぐう眠ってるのよ。よっぽどこの数日眠ってなかったんじゃないの」 「まあまあ、そうかもしれない。ここんところ、いろいろあって眠る時間もなかったから。でも、じゃあ、聞くけど、この点滴は?何で点滴なんてしてるんだよ。なんかの治療なんじゃないの?」 「この点滴はね、弘ちゃん」と女性が答えている。「この人が病院に来たときにこちらが呼びかけたら『おなかすいた』とだけ言ってたからよ。血液検査したらちょっと栄養失調気味だったから」 「栄養失調、」東城がショックをうけた声を出している。 「そうよ。身体に必要だけの栄養がないのよ」と女性は言った。「こういってはなんだけど、弘ちゃん、なさけないわよ。大事な人が栄養失調気味って、あなたなにしてるの。ご飯くらいちゃんと食べさせるべきなんじゃないの?」 「こいつ、尋常じゃないくらい食べるから」 「何言ってるのよ」と女性は言う。「だからって、象が食べるほどには食べないでしょ」 しばらく沈黙が流れた。女性はその後で言う。 「たとえ象ほど食べるとしても、よ、食費ケチケチするなんて。その上言い訳するなんて、恥ずかしくないの。大事な人が、おなかすいて、眠くて病院にかつぎこまれるって、どうかと思うわ。睡眠と食事は人間が生きていく基礎的な要素でしょ」 また、しばらく沈黙がながれた。広瀬が眠っていただけなのかもしれない。東城は言った。 「この点滴は不要?単に寝てるだけ?」 「さっきからそう言ってるんですけど」 「じゃあ、この後、連れて帰ってもいい?起きたらご飯食べさせるから」 「まあ、そうねえ。起きたら検査に来てくれるのであれば」 「検査は、本人次第だな」と東城は答えた。「退院の手続きは?」 「保険証とお金があれば」 東城は少しまた黙った。「俺から金取るの?」と聞く。 女性はやや面白がっている口調で言った。「たまにはお金もらってもいいかもね。あなた、うちの診療所にお金払ったことないらしいし。この前も、会計に私が払ったのよ」 「何のお金?」驚いた声だ。 「ずいぶん前だけど、あなたが、腕と頭を怪我して来たときの」 「ああ、あれ」と東城は言った。「お母さん、それもこれも俺が払うよ。後で、請求書おれんちに送って」 「わかったわ。退院の手配しておきます」と女性は言った。 しばらくすると身体を別なベッドに移された。その後はあまり覚えていない。疲れて眠かったのとおなかがすごくすいていたのだ。 後から考えると不思議な会話だった。女性が東城のお母さんだとして、どうして広瀬のことを大事な人と言っていたんだろう。東城が母親に言ったのだろうか。それにしても、息子の大事な人が広瀬なんかだとわかって、穏やかに優しく話しているっていうのも不思議だった。あの会話は夢だったのかもしれない、と後で広瀬は思った。 次に目が覚めたときには、そこは、東城のマンションの大きなベッドの上だった。 東城の胸に頭をつけて眠っていたようだ。彼のあごが頭にあたっている。両腕が背中に回っていた。東城も眠っているのだろう。彼の腕の中はとても温かく東城の胸の鼓動と呼吸が心地よかった。 もぞもぞしていたら、東城はすぐに起き上がった。ベッドを降りると時間をおかずにジュースと濃いスープを持ってきた。カロリーがかなり高そうだった。どちらもあっという間に飲んでしまった。全然足りないんだけど、と思っていたら、「動けるか?」と聞いてきた。 うなずくと頬をなでられた。暖かい手だ。 「焼肉でも食いに行く?」と聞かれた。 広瀬は何度もうなずいた。 今まで東城から聞いたどの言葉よりもその言葉は広瀬の耳に甘美に浸み込んだ。

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