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枝川のアトリエは都内の喧騒を抜け、かなり東へ向かった先にある。途中で車は東京湾を越えた。天気がよく朝の海は静かで輝いていた。
「広瀬くんが落ちたのどの辺?」と佳代ちゃんが海を見ながら聞いてくる。
東城が吹き出している。「夜中に東京湾に落ちてたら今頃魚のえさなんじゃないか」
「運河で落ちたんだよ」と宮田が説明していた。そして遠くを指差す。「あっちのほう」
「ああ、そうなの」と佳代ちゃんがうなずいた。「水飲んだ?」と広瀬に聞いてくる。
「少しは」
「ニュースで燃えてる船みたけど、すごい事件だったわよね」と彼女は言った。「あの青キヨラが殺人をしてたっていうのも、びっくり」
青キヨラは意識をとりもどした後、取調べに対し、確かに自分たちが近藤を殺したという自供をした。共犯の事務所の社長は、青キヨラの兄だった。
近藤は、自分をはめた組織について情報収集をするうちに、青キヨラの絵が、金銭の授受代わりに利用されたことを知ったのだ。そして、画家を訪れ、そのことを知っているのか、と聞いてきた。青キヨラはその時には否定した。何も知らないし、自分の手を放れた作品をどうにかすることはできない、と告げたのだ。
だが、しばらくして、近藤は再び彼を訪れた。そして、青キヨラの絵に高額な金額がついたことで話題になった海外オークションのことを聞いてきたのだ。
オークションのことは、佳代ちゃんが探してきた美術好きが話す程度には疑われていたので、気にする必要はなかったはずだった。
だが、青キヨラが、近藤をどうにかしようと思ったのはその時だったらしい。オークションの件は、画家が最も世間に知られたくないことだったのだ。
「海外のオークションはやっぱり嘘だったんですか?」と佳代ちゃんが質問している。
「村井っていう画商によるとそうだ。作られたオークションで関係者が値段をつりあげ、当時無名だった青キヨラの絵に価値をつけたらしい。村井とその関係者たちが仕組んだことだ。だから、青キヨラは自分の絵を村井の依頼通りに描いていたんだ」と東城は言った。
青キヨラは近藤の告発に協力すると言った。そして、その前に今自分の絵を持っている技術書の会社に、産業スパイの組織のことを確認してみようと近藤に持ちかけた。青キヨラがクルーズ船に技術書の会社の幹部を呼び出すから、準備を手伝うように言ったのだ。
クルーズ船の予約は、近藤にさせたらしい。近藤の死体がでたときに、彼が技術書の会社のために船を予約していたとわかれば、先に技術書が疑われると思ったのだ。
ところが近藤は何を思ったかネット上の匿名サイトで知らない人間に依頼し、船を予約させたのだ。理由は今のところわからない。産業スパイに関わる技術書の会社の人間を、近藤は近藤でどうにかしようと思い、証拠が残らないようにしたのだろうか。
待ち合わせ場所からクルーズ船に向かうためにといって、青キヨラたちは近藤を自分の船に乗せた。そして、近藤を船から落として殺したのだ。
「村井を捕まえて殺そうとしていたのはなんでですか?」と佳代ちゃんが聞いた。
「青キヨラの絵は、村井が仲介して技術書の会社やオールシステム社に金のかわりにわたされてたんだよ」と宮田が解説している。
オールシステム社は、近藤がはまったSM店での映像を彼を脅す材料にするために矢後に渡した。その報酬が絵の売買益だったのだ。近藤の映像を依頼主に渡した後、オールシステム社は、絵を村井に売った。オールシステム社は購入金額と売却金額の利ざやを利益として得る。会計上は絵の売買だ。税金も払い、誰もなにも指摘できない。
村井はさらに絵を技術書の会社に安価に売った。技術書の会社は、近藤が盗んだ機密情報の評価や翻訳をし、最終的な納品責任を負っていた。無事に納品ができれば、絵を売り、利益を得るはずだったのだろう。
「広瀬が取引のことを聞きにきたから、画家たちは村井を呼び出した。そこで話がこじれたらしい」と東城は言った。「青キヨラは、自分の絵を取引に利用されることにうんざりしてたんだ。近藤を殺してたががはずれたんだろうな。村井も始末してしまおうということになったんだろう」
佳代ちゃんはうなずいた。「広瀬くんが行かなければ村井も殺されてたんですね。今でも犯人はわからないままだったかも」
「良い方に解釈すれば、そうかもな」と東城は言った。奥歯にものがはさまったような物言いだった。
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