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そんな会話を聞いているうちに、枝川が言っていた15分がたった。 枝川は、カメラのスイッチを切った。枝川は広瀬に丁重に礼を言った。どんな作品になるのだろうか、と広瀬は思った。 帰りは夜になっていた。 枝川のアトリエの中をみたり、周辺を散策しているうちに時間はあっという間にたったのだ。佳代ちゃんは、大満足だったようだ。また、遊びに来てくださいと言われ、ぜひ、と答えていた。 帰りの車の中で、佳代ちゃんが東城に質問していた。「それで、福岡チームは、産業スパイの組織を摘発できたんですか?」 「まだだ。近いところまできてると思うけど」と東城は答えた。「オールシステム社も、技術書の会社も、組織に依頼されただけだ。依頼主は村井を使って絵で金銭を支払っていた。村井も組織のことは知らないと言っている。今、彼の事務所にあった書類や口座情報を洗い出しているんだが、海外の口座使ってるから、かなりやっかいだ」 「矢後はどうなったんですか?」と佳代ちゃんが聞いた。「峯尾さんがこの前、福岡警視に呼ばれて、なんだかとても感謝されたって、言ってましたよ。悪い気はしなかったみたいだけど」 「USBメモリーの件が片付いたのは、峯尾さんから情報で早くにあいつを見張ることができたからだから、感謝しきれないよ」と東城が言った。 近藤は機密情報をチンピラの矢後に渡していた。だが、最後の重要ファイルにパスワードをかけていたのだ。矢後は、長いパスワードを入れたUSBメモリーを入手するため、近藤からUSBメモリーを預かっていたれいあを脅したのだ。 そして、USBメモリーの明け渡し場所には、矢後は現れなかった。来たのは若い男だった。彼は矢後にアルバイトで雇われただけだった。若い男はUSBメモリーを手に入れた後、ネットカフェから指示された海外のサーバーにデータを送った。その後、福岡チームが男を任意同行し、その男の証言とれいあの確認で、矢後に逮捕状をとったのだ。 矢後は、オールシステム社の映像を利用して近藤を脅して機密情報を盗ませたことを認めた。 また、一時、近藤を拘束し乱暴をして脅しもしたのだ。近藤は命の危険を感じ、その場を逃れた。彼の身体についていた傷は、拘束時についたものと考えられた。せっかく矢後から逃れたのに、その後近藤は青キヨラと接触し、殺されてしまった。 「でも、結局は産業スパイの組織にパスワードを渡してしまったってことですか?」と佳代ちゃんが言った。 「いや、パスワードは、少し変更して保存しなおしたから、機能しなかったはずだ」と東城は言った。 「よかった。よく考えればそれはそうしますよね」と佳代ちゃんは言っている。「じゃあ、結局は、産業スパイは情報入手に失敗したんですね」 東城は、あいまいに返事をした。広瀬も、それはどうだろうと思う。 産業スパイの組織は、渡されたパスワードが機能しなくても、矢後へも技術書の会社へも深追いしてこなかった。パスワードは暗号解読の技術があれば解読できそうだ。そして、それ以上に懸念していることがあった。 USBメモリーのデータは勢田も持っているのだ。 彼は近藤の日記を読んだはずだ。地下経済に通じている勢田が、このパスワードを利用しなかったとは言い切れない。広瀬はその仮説を東城には話さなかったが、東城もうすうすそう考えているのではと思っている。彼や福岡の捜査チームは、もしかするとその線でも組織を追っているのかもしれない。 だが、勢田の話はお互いにしない。意識的にそうしている。少なくとも広瀬は。 夜の海を横目で見ながら車はスムーズに走っていた。 「あ、月」と佳代ちゃんが言った。 見ると上空に半月がきれいに浮かんでいた。明るい。 宮田が「そうだね」とあたりさわりのない相づちをうっていた。 広瀬は、月をみながら、あそこから見る地球はどんなだろうかと思った。よく写真で見る青い地球のそのものなのだろうか。 詩島の手料理の昼食をご馳走になった後、広瀬は、一人で、枝川のアトリエの奥に入った。 壁にはいくつも絵がかかっていた。テーブルの上に小さなモニターがあり、映像が繰り返し流れていた。 CGで作ったようだ。切り立った崖、絶壁、滝、尖った山の頂が映る。どこかで見たような自然の風景だが、場所の特定はできないくらい特徴はない。そして、ゆっくりとだがカメラがひいていく。最後に、地球を眺める映像になっていく。 「険しい地も、遠くからみれば、全ては平らである」という文字が最後にでた。そして、また切り立った崖にもどっていくのだ。 広瀬は、繰り返しその映像をみた。 仕事のことも、東城のことも、広瀬にはジェットコースターに乗っているように思えることがある。だが、それも、時間がたって、遠くからみてみたら、なだらかに思えるときがあるのだろうか。そうだとして、それは自分にとってうれしいのだろうか、それともさびしいのだろうか。 モニターの後ろに、地図の絵がかけられていた。3人展で見たのと同じものだった。きれいな地図だ。 ふと、「地図2」の脇に手書きのメモのようなものがピンでとめられているのに気づいた。 広瀬の地図のピンと同じタイプの金属の小さいピンで、色は銀色だった。 そこには鉛筆をつかって「親友のKへ。そして、Kが愛してやまない美しいAへ。僕はまだ会ったことがないけれど」と几帳面な文字で書いてあった。 3人展にはこの献辞はなかった。 この部屋に飾っているときにつけているのだろう。 Kというのは、東城の名前の弘一郎だと広瀬にはわかった。 そしてAは自分の名前だ。地図の作品は、枝川が親友の東城と東城が熱心に話す広瀬のことを思って作られたのだ。東城はどんなふうに自分のことを枝川に話したのだろうか。どれほどの想いを枝川は感じたのだろうか。 広瀬は、手を伸ばしてそのメモに触った。そして、そっとピンからその紙を抜き、丁寧におりたたむと、自分の胸ポケットに入れた。 今思うとどうしてそんなことをしてしまったのかわからない。枝川は今頃献辞のメモがないことに気づているだろうか。気づいたとして、どう思っただろうか。 メモは今、広瀬の胸ポケット、心臓の上にある。 東城はそんなことはもちろん知らない。彼の横顔を見ると、機嫌よく車を運転していた。 夜の海は凪いで穏やかだった。

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