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生まれも育ちも 4
広瀬が、東城のマンションの鍵をあけると、既に灯りがついていた。
今日は遅くなるといっていたのに、早かったのだろうか。そう思いながら靴を脱いでいると、奥から声と足音がした。足音が聞きなれた東城のものより軽い。
「おかえりなさ、い」
その声は女性のものだった。
玄関に来た女性は、広瀬をみて、言葉を切った。
広瀬も、返事ができず、つったって彼女をみている。
すらっと背の高い、目鼻立ちのくっきりした美人だった。
高級そうな濃紺のスーツに身を包んでいる。ネックレスも指輪も時計も、みるからに高価そうだ。明らかに、東城の私的な生活の方に属する人間だった。
自分の口がポカンとあいているのに気づいて、広瀬は、口をとじた。そして、靴を履きなおすことにした。
「すみません。部屋を間違えたみたいで」
とにかく、この場を去ろう、と思ったのだ。合鍵をもっているから入ることができたのに間違えるもないものだが、とっさにはそれくらいしか言葉が思いつかなかった。そして、こんなときに限って、靴がスムーズにはけなかったりするのだ。
「ああ、待ってください」と女性は言った。彼女の方が立ち直りが早かったようだ。「あなた、広瀬さんでしょう?」
名前を呼ばれたのでさらに広瀬は動揺する。こんなにあせるのは1年ぶりくらいだ。
「私は、弘一郎の姉の林田美音子です」と女性は名乗った。そういわれると東城と面差しが似ているような気がする。「帰らないで。あなたが帰ったら弘一郎さんにしかられてしまいます」どうぞあがってください、と美音子は言った。
今日は自分の方が勝手に来ているのだ、と言いながら、広瀬が部屋にあがれるように、脇によける。丁寧に、だがきっぱりとあがってほしいと繰り返し言われ、広瀬は帰ることができなくなってしまった。
奥のリビングにいくと、美音子が後ろから話かけてくる。「いつもどおりしててくださいね。私のことはお気になさらず」
いつもどおりといわれても、このまま浴室を使って、置いてある自分の部屋着をきて、ソファーに寝そべってウイスキーを飲みながらぐだぐだと東城を待つ、なんて、とても美音子の前ではできない。
美音子は、ダイニングテーブルの背もたれの高い椅子に品良く腰掛けた。何をするでもなくただ座っている。女王様みたいだ、と広瀬は思った。
「何か、飲みますか?」とやっと広瀬は思いついて声を出した。
いや、それは美音子が自分にいうべき言葉なんだろうか、と自問自答しながら。こういう場合どちらがお客なのだろうか。
美音子は微笑んだ。「ありがとうございます」当然のようにうなずかれた。飲み物を出す、というのは彼女の役割ではなかったようだ。
「えっと。何がいいですか?」こういう女性は何を飲むんだろうか。
「広瀬さんと同じもので」
「俺は、ウイスキーの水割りなんですけど、それでいいんですか?」
美音子はうなずく。「はい。よろしくお願いします」
ところが、広瀬がキッチンに行こうとするのをとめる。「広瀬さん」
「はい」
「うがい、なさってないわ。外から戻られたら、手洗いとうがいをなさい。病気の予防になりますからね」幼い子供に対するような声だった。
「はあ」
そういえば、東城の姉は医者だと以前東城が言っていたのを思い出した。東城の実家の病院を夫の医師とともに継いでいるのだ、と。
広瀬は素直に美音子の言葉に従い、洗面所で手洗いとうがいをする。そこで、はっと思い出し、東城に早く帰れとメールをした。それから急いでキッチンに戻った。
美音子は相変わらずじっと座っている。
ウイスキーの水割りをつくり、何か、つまむものを冷蔵庫から探す。冷蔵庫に入っているのはビール、ソーダ、干からびたベーコンくらいだった。
中身がないことについて内心でブツブツ東城に文句をいい、冷蔵庫以外の棚を探ると、やっと、スナックの袋がいくつかみつかる。ピクルスの瓶詰めもでてきた。賞味期限をみて、大丈夫そうと判断し、皿にあけた。スナックも適当に皿に入れ、水割りと一緒にダイニングテーブルに運んだ。
「ありがとうございます。いただきます」と美音子は言った。
そして、ゆっくりウイスキーを飲んだ。
「おかけになって。お仕事されていたんでしょう。お疲れ様でした」と美音子がいう。
「はあ」広瀬は、美音子に椅子をすすめられ、彼女の正面の椅子に座った。こんなに東城に早く帰ってきて欲しいと思うことは今までない。
美音子はにこにこして広瀬をみている。
「広瀬さん、想像していた以上に素敵な方ね」と美音子は言った。「前から、お付き合いしている方がいるなら一緒にうちに遊びにいらっしゃいって弘一郎さんにいっていたんですけど、忙しいからとかいって、全然紹介してくれなかったんですよ」
東城も、広瀬を連れて実家に行くほど大らかではないのだろう。このお姉さんは相当大らかだ。
お姉さんは弟が男の自分と付き合っていることをなんとも思っていないのだろうか。
いや、そうじゃなくて、そもそも、なぜ、お姉さんは自分の名前を知っているのだろうか。東城が自分のことを話したのだろうか。
こんな居心地の悪い思いをするはめになるなんて、後で東城をどんなめにあわせてやろうか、と広瀬は思った。
そんなことを考えていると、マナーモードにしているスマホがズズズとゆれた。東城からの電話だ。広瀬は、急いでとった。そして、すみませんと美音子に言って、洗面所の方に小走りでかけこんだ。
「お前がメールしてくるなんて、珍しいな」東城の相変わらずのにこやかで明るい声だ。
「それどころじゃないんです」と広瀬は声を抑えて言う。
「どうした?」真剣な広瀬の声に、東城の声も緊張が走る。
「お姉さんが、来てるんです」
「え?」
「東城さんのお姉さんが、ここに」
「ここって、俺のうち?」
「はい」
ごくわずかな沈黙の後、「すぐ帰る」といって東城は電話を切った。
広瀬は、東城がどこかの遠い現場ではなく、本庁にいることを祈って、ダイニングに戻った。
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