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252.静かな作業部屋
静かな室内には、ペンを走らせる音だけが響いている。
時折インクを付けて、ただ黙々と書類を仕上げていく作業だ。
レイヴンは以前からテオドールの仕事を手伝ってはいたが、レイヴンが自らの名でサインするようになってどれくらい経ったのだろうか――
「……」
また思い出してしまったせいで、レイヴンの手が止まる。
紙の上にじわりとインクが広がってしまい、レイヴンは息を吐きながら一旦ペンから手を離した。
情けない。一体いつまで引きずっているのだろう?
レイヴンはまた、ため息を吐く。
師匠で魔塔主であるテオドールは……レイヴンの隣にいないのに。
+++
魔族との戦いの後、テオドールのおかげで恐ろしい闇が人間界に召喚されることはなかった。
だが……戻ってくると約束したテオドールは、いつまで経っても戻ってこなかった。
レイヴンは……事実をなかなか受け入れられず、泣き叫んでいたところをディートリッヒに気絶させられた。
恥ずかしかったが、脅威が消え去った直後のレイヴンは自我を失うくらい取り乱していたらしい。
らしいというのも、正直衝撃が強すぎてレイヴン自身の戦い後の記憶は未だにぼんやりしているからだ。
「はあ……ダメだな。少し、疲れてしまったみたいだ」
レイヴンは眉間をグッと押して、長く息を吐き出した。
今は落ち着いてきたのだが、それでも未練たらしくあの憎たらしい人を思い出す。
レイヴンの髪も自然とテオドールくらいに伸びてきて、今は首筋をくすぐるくらいの長さになってしまった。
もう少し伸ばしたら、肩に触れるくらいになるだろうか?
顔にかかるのが気になるので、今は赤の細い紐で結んでいる。
「嘘つき……」
呟くと、レイヴンの瞳に涙が浮かんできた。もう涙なんて枯れたと思っていたのに――
「ホント、女々しいな……俺……」
魔塔主不在の室内で、テオドールがいつも仕事をさぼって寝転んでいたソファへ寝転んでみた。
スンっと息を吸い込むと、ソファにはまだ微かに煙草の香りが残っていた。
でも、この香りだってそのうち消えてしまう。
「俺はまだ……年を取る月までは、いっていないけど。そのうち二十歳になりますからね」
誰に言う訳でもなく呟いて、硬く目を瞑る。
テオドールがいなくなってしまってから、半年が過ぎてしまった。
あの人は存在感がありすぎて、忘れたくても忘れられない。
「だから……ほんっとうに、腹が立つ」
今の状況すら想定していたということも、レイヴンは腹が立っていた。
テオドールが不在で、レイヴンだけが生き残る未来。
最悪の事態も考えて、テオドールはあらゆる手を打っていた。
+++
「レイヴン・アトランテ。そなたを魔塔主代理に任命する」
レイヴンが魔族との戦いから戻ってから半月後――
ディートリッヒとウルガー、そして聖女を含めた魔族討伐に出向いた全員が玉座の間へ呼ばれていた。
魔族との戦いの後、ディートリッヒが全ての事象を陛下に報告したとは聞いていたのだが……レイヴンは聖女から休養しなさいと申しつけられていた。
自分では平気なつもりではいたが、レイヴンの顔を見た全員がとにかく休養をと言っていたこともある。
レイヴンは戦いのあと、聖女のいる神殿の奥の部屋に運ばれていた。
無理をして魔法を行使し続けていたことで、魔力 と精霊力が不安定だったためだ。
日中眠っていることが多く意識も混濁 していたので、レイヴンが落ち着くまで聖女が優しく励まし続けていたのだ。
聖女のおかげで少しずつ何とか自分を取り戻し、レイヴンは魔力 と精霊力を制御できるようになった。
レイヴンの体調が一旦落ち着いたこともあり、陛下の元へ行くようにとお達しを受けた。
「これは王命である。この書面は、私とテオドールのサインが記された正式な委任状だ。本来ここまでする必要はないのだが、中には納得しないものがいるかもしれないと私とテオドール両者の意見で委任状を作成した」
「こちらの委任状は陛下とテオドール両者で交わされたものだと、僭越 ながら私、アスシオが断言いたします」
玉座の間にはレイヴンたちの他に文官も含めた国の重要人物も一緒だったが、その書面はアスシオの手によって皆へ示されていた。
レイヴンも遠目で確認したが、あの癖のある字はテオドールのもので間違いないと確信できる。
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