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第41話

先生に報告して、いつものように咲の部屋で勉強会をしていると、急に背後から抱きつかれた。 恋愛的なそれでも友愛的なそれでもなく、大型犬に圧し掛かられている気分。 「のぞ。」 「ん?どしたの?甘えただな。」 咲の髪を雑に撫でて、胸を押す。 甘えたも嬉しいけれど、急に抱き付かれては理性が持たない。 努めて平静を装いながら、髪をかきあげる。 「困ってることない?」 「ない。」 俺が即答しても変わらずにじっと睨みながら、泣きそうな表情を浮かべている。 帰り道もなんだかずっとそわそわしていたし、聞いても「別に」しか言わないから怒っているのは分かっていた。 分かっていたけれど触れなかったのは、俺がいっぱいいっぱいだったから。 「咲はなんか嫌なことあったの?」 「すげえあった。」 「何?」 俺の質問には答えず、鼻にくしゃっと皺を寄せる。 「本当に犬のようだな」と思いながら眺めていると、再び前から抱き付いてくる。 胸を押しても離れる様子がなく、仕方がなく背中に手を回した。 「メンブレじゃん。」 「うん。」 そう言いながら首に腕を巻きつけ、息苦しいほどに密着する。 咲の心音がどんどん早くなるのを感じて、俺の身体も熱くなる。 「ちょ、苦しいって。ムラってんの?」 冗談交じりにそう言うと、咲は驚くほど怖い顔をしていた。 八木パイセンにちゅうをしたことを責められた時の、比ではない。 怒りを言葉で発散させていたこの前とは違い、身体の奥にぎゅうぎゅうに無理やり詰め込ませたような、苦しそうな表情。 全身の毛を逆立て、込み上げるものを我慢しているのが、血走った眼から理解できた。 「のぞ、絶対に1人になんなよ。絶対に俺から離れんな。」 ―――あー、進藤。言うなっていったのに……。 咲が怒る理由は、俺だった。 そのことが嬉しくて、ほっとして、そんな自分が嫌いだった。 「進藤に聞いたんだよな?」 「うん。」 「岩井、殺してないよな?」 「進藤に羽交い絞めにされた。のぞが悲しむっていうから、頑張って我慢した。」 「いいこいいこ。」 大人しく頷くと、再び苦しいくらいに抱き付かれる。 その腕に縋りたくなる気持ちを殺して、背中をぽんと叩いてやった。 「大丈夫。大したことじゃないから。小学生のガキじゃないし、前みたいにはならないよ。」 「ごめん!!ごめんな?もっとちゃんと見てればよかった。ごめんね。気持ち悪かったよな?怖かったよね?ごめんね。」 咲のせいではないのに、苦しそうに何度も謝るから「平気だよ」と嘘をついて抱きしめる。 全身を舐められているような気持ちの悪い感触が、肌から抜けない。 でも、咲の体温を感じていると、それが和らぐのが不思議だった。 「これ以上は無理だろ?部活の時だったし。」 「部活やめる。」 「ダメ。今辞めるの絶対許さないから。図書室で待ってる。あそこ司書さんと委員会の子2人は必ずいるから。」 「終わったら速攻行く。トイレとか行きたくなったら連絡して。」 「うん。」 これから強豪校に行くのに、そのために毎日欠かさず自主練に取り組む咲の邪魔は絶対できない。 こんな弱小中学のお遊びバスケなんかじゃなくて、もっとレベルの高いところで伸び伸び生きて欲しい。 俺のせいで今まで縛りに縛り付けてしまったから、その懺悔の気持ちが大きかった。 *** 「望海、おかえり。」 咲に扉が閉まるまでしっかり見送られて、振り向くと玄関には陽兄が立っていた。 いつも来るときはしつこいくらいにLINEがくるのに、アポなしは珍しい。 兄と言っても年が大分離れていて、すでに成人していて社会人3年目。 都内に1人暮らしをしていて、ハウスメーカーの営業で忙しなく動き回っている。 母親譲りの瞳が緑色の俺とは異なり、父親に年々よく似てきている。 一番上の姉とは年が近く、俺にとって2人は親に似た存在だ。 そのせいか蝶よ花よ状態で妹のように可愛がられ、自他ともに認めるブラコンは年々拍車がかかっている。 「ただいま。」 俺が言い終わらないうちに、胸のなかにぎゅうっと閉じ込められた。 中学生の同性の弟に対して、ここまで愛情を注げる兄が正直心配でならない。 彼女に何度か会わせてもらってるからそっちの心配はしていないけれど、彼女の前で俺を優先順位1番だと公言する兄は、ドン引き以外のなにものでもない。 いつまでも終わらないハグに呆れて胸を押すと、俺のカバンを掴んで後ろからハグをされながら洗面所に向かう。 「母さんから聞いた?」 無言でべったり張り付く兄に嫌気がさしてそう聞くと、鏡に映りこんだ陽兄が髪に頬を擦り寄せる。 いつまでも変わらない過剰な愛にげんなりしながら、リビングを覗いた。 「母さん!!姉ちゃんだけって言ったろ?」 俺の姿を見るや否や今にも泣きだしそうな表情の母親に、これ以上責める気にはなれない。 男の俺よりも怖い思いをしてきたんだろうことが、母さんを見たら安易に想像つくから。 「だって!瑠海ちゃんには事務所で法的な措置をとることにしようって話してるけど、心配で心配で。」 「大げさ。そこまでしなくても、これで目覚めると思うし。」 鍋から漂ういい匂いに、俺の腹が正直に反応する。 ことこと丁寧に煮込まれた澄んだスープ。 コンソメの匂いが鼻をくすぐる。 姉は法律事務所で働いている弁護士。 30代になってもまだまだ新米だと言われる業界だから、今回の件もまだ相談程度。 でも、法律の知識がまるでない俺たちからは、最高の助っ人だった。 「学校行かなくていい。」 「は?受験生に言うことじゃなくね?」 「行くな。」 「義務教育なめてんの?ガキじゃないから大丈夫。」 「無理。望海かわいすぎるから。猿共の檻に入れておきたくない。」 野郎を全て猿だと断言する兄に笑いながら、帰って来てから離れない腕をぽんと叩く。 「信用ねえのな?」 「望海じゃなくて、お前の周りの野郎を全く信用していない。」 「はいはい。」 いつものようにそう言いながら、頬にキスをされた。 家でも外でも平然とするから、こちらが冷や冷やする。 ―――あんたマジで日本人か? 「いい加減やめろって。彼女にしてろよ。」 「いいじゃん。彼女とは別れたし。」 「それ、また俺が原因?」 「なんで分かってくれないんだろ?」 「いやいや、俺でも陽兄が分からねえよ。」 「なんで?望海がだいすきだよ。」 「それは知ってる。」 ―――この人、マジで末期だわ……。 「のんちゃん、これ瑠海ちゃんからプレゼント。」 「ん?」 「後で電話するって言ってたよ。」 「ふーん。」 母さんから小さな小包を受け取り、着替えるために2階に向かう。 やけに軽い包みを開けると、そこには小型のボイスレコーダーと防犯ブザー。 達筆すぎる姉の字で「御守り」と書かれていた。 電話なんかなくても全てを理解して、その場にしゃがみ込んだ。

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