5 / 7

第5話

5 カーテンの隙間から差し込む細い光が、ちょうど僕の瞼めがけて伸びていた。 目を覚ますと、隣では泰文君が眠っている。学ランは前がはだけて乱れたままだった。 ただでさえ童顔なのに、眠っていると余計に幼く見えて自分の中の何かが刺激される。 そんなよこしまな思いにふたをするように、僕はボタンをとめる。 病院が開く前から、玄関にはいつも大行列ができている。ここは予約制だから、早く来たからと言って早く見てもらえるわけではない。 このことは受付の人からも僕からも何度も説明しているけれど、なかなか分かってもらえない。 診察時間が少し遅れただけで受付に向かって怒鳴る人や嫌味を言い続ける人。 そこに僕が現れたとたん静まり返るのはなんでなんだろう。「すみません」と受付の人が小声で謝るのも嫌だった。何も悪い事をしてないのに。 大きな仕事がやっと片付いて、食堂で昼休憩をとっていると「先生お疲れですね」と普段あんまり話さない部署の人たちが声をかけてきた。「あぁ、どうも」一人になれると思ったのにな、とがっかりしながらお冷を飲んだ。そうとは知らない彼らは、どやどやと座り込む。 「そういや、この前の火事覚えてます?うちにも何人か運ばれてきたやつ。あれ、住人の寝たばこが原因だったらしいですよ」「そうなんですか」「えー、他の人ら、いい迷惑じゃないですかー」キンキンした話し声を聞いていると、心の底にいらいらがたまっていく。 「あと、長弓先生が診た若い人、あのあとどうなったんですかね。MSWの介入とか全部断ったって聞きましたけど」「あー、なんか友達の家にしばらく世話になるって言ってませんでしたっけ」一瞬ドキリとしたけど、僕はもくもくと食べ続けた。 「あの人、定職についてなかったんですって。ずっとフリーターで。ああいう人って、今までどんな生き方してきたんでしょうね。世の中なめてるっていうか、そんなんで生きていけると思ってるのが逆に凄いっていうか」その中の誰かが言った。皆もその意見に同調して笑いだす。 「その人がどういう過程を経て生きてきたかも知らないくせに、偉そうな口をきくあなたの方が凄いと思いますよ」思わず自分の口から出た言葉に、周囲の視線が僕に注がれる。 「…失礼」僕は席を立つ。子供っぽい真似をしてしまったことが恥ずかしかったけど、あの会話を聞き続けるのはもっと嫌だった。 誰にも、理想の暮らしという物があると思う。好きなものを好きなだけ買って暮らしたいとか、素敵な洋服に囲まれて、おいしい料理をお腹いっぱい作ってくれるお母さんがいて、休みの日にはドライブに連れて行ってくれるお父さんがいて、お金も沢山あって… それと自分が置かれている境遇を比べて落ち込んだり惨めな気持ちになったりする。 あの子が持ってるゲームがうちにはない。あの子が着ている洋服なんて買ってもらえない。 この世に生まれた瞬間から親という物に支配され、依存し生きていく。 人によっては反抗し、一方ではすねをかじって生きていくことを望む人もいる。 幼いころから受けてきた言葉や教育で、どんな大人になるのかが決まってくる。生きていれば、この人は今までどんな生き方をしてきたんだろうと思ってしまうほどに失礼な人や面倒な人がいる。 だけど、その人がどんな経緯を経てそういう大人になったのか、分からない。もしかしたら過去に心がねじ曲がってしまうようなひどい経験があったのかもしれない。 親の教育がなってなかったのかもしれない。 ただ他人から聞きかじっただけの情報で、その人を判断するのはとても恐ろしい事だと思う。その人が「どういう人間なのか」なんて、簡単に分かるわけない。 僕だって患者から見たらまじめな先生だと思われているのかもしれないけど、本当はゆがんだ性癖を持った気持ちの悪い変態だ。 僕自身がそういう人間だから、なにか暗いものを持った人を見ると、なんとなく切ないような気持ちになってしまうのかもしれない。 今頃泰文君は何をしているんだろう。器の底に残った麺を見ながらそう思った。 今日は定時で上がることができた。僕の部屋があるあたりに目をあると明かりがついている。家にいてくれているようだ。玄関を開けると、うっすらと何かが焦げたようなにおいがする。奥へ進むと、泰文君が流しで洗い物をしていた。手元を見ると焦げて黒くなったフライパンを持っている。それ以外にも、リビングには畳まれていない洗濯物の山があったりあちこちが微妙に散らかっている。「…なんかしようと思って」泰文君が口を開いた。 「でもなんも出来なかった、なにもしてこなかったから」しょんぼりと、悲しそうに肩を落としている。「何かしようと思ってくれたことが嬉しいよ。ありがとう」泰文君は顔を下げたままだった。「僕も一緒にやるから。ね」そう言うと、こくん、と小さく頷いた。 家の中を片付けて、今日は出前を取ることにした。「ここのラーメンおいしいんだよ」器の中の琥珀色のスープにうかぶ、きらきらした油のしずく。煮卵とメンマとチャーシューとネギだけがのったシンプルな醤油ラーメン。泰文君は割り箸を持って器を覗いている。その瞳に光が差した。「いただきます」小声で呟いて食べ始める。「おいしい?」「うん」「チャーハンも食べる?餃子もあるよ」「うん」 年の割に幼い言動にも感じたけれど、僕はそれさえ可愛いと思ってしまう。 泰文君は色んな料理をぱくぱく食べてくれた。この顔を見るのが好きで、僕も料理に励んでいるところがある。膨らんだほっぺたの丸さをじっと見てしまう。 食事が終わった後、二人で並んでソファに座っていた。泰文君の顔が満足げに見えて僕も嬉しかった。 「…あの」「ん?」「なんで、医者になろうと思ったんですか」泰文君がお茶が入ったマグカップを持ったまま言う。 「…この世に貢献したかった」「え?」「僕でも…変態の僕でも、世の中の役に立てれば許されると思ったから。誰に許してほしいのか自分でもわからないんだけど…自分でも、誰かの救いになってるって、証明したかった」自分の性癖を悟った日から、ずっと考えていた。 自分はいつか、犯罪者になってしまうんじゃないかと、怖くて眠れなくなったことがある。 普通に先輩の事を好きになっていたら、こんなことにはならなかったんだろうか。 自分が好きなのはあくまで先輩であって、小さな子供ではない。そのはずだと何度も言い聞かせた。 ロリコン、という言葉が胸に刺さってから、普通に好きになる方法が分からなくなった。 今もこうして、先輩に似ている泰文君を自分の都合のいいようにこの家に押し込めている。 「僕は気持ち悪いから、その分を別の事で補わなくちゃいけないんだ。こんな趣味を持った自分でも、生きていく権利を下さいって、神様にお願いするような気持ちでいるんだ」 言い訳ばっかりだ。自分がいいように、自分の都合のいいように。 「でも偉いよ」泰文君が言った。 「俺馬鹿だから…医者って、相当勉強しないとなれないじゃん。血とか、内臓とか、俺絶対怖くて駄目だし…一生懸命勉強して、医者になったんだもん、それだけでも、あんた相当凄いんじゃないの」今まで誰にも言われたことが無かった。 「この手があったから、俺生きてるんでしょ」泰文君が僕の手を、ちょん、とつついた。 彼のお腹を開いた。シャツのボタンをはずした。ハンバーグを作った。 「少なくとも、俺よりは立派なんだから、いいじゃん」泰文君のちぐはぐで、でも凄く優しい一言が、自分の心のどこかに優しく刺さって穴をあけた。 そこから膿が流れていくような気がして、胸がきゅっとなった。 さっき食べた餃子みたいな形をした月が、僕らを照らす、そんな夜の事だった。

ともだちにシェアしよう!