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第6話

6 泰文君の生活能力は、決して高いとは言えなかった。でも、まったくないわけでもない。 ある時は洗濯物の山の中で洋服をいじっていたり、ある時は台所の排水溝をブラシで延々とこすっていたりしていた。 彼の中には、何か行動しなきゃいけないという気持ちがあるということが伝わってくる。 「のんびり過ごしていいんだよ」この言葉に嘘は無いけど、下心はあった。 彼は家を火事で無くして、金銭的にも困っていて、身寄りがない。普通そんな状況に陥ったら、生活をするだけで精いっぱいだと思う。だから、彼の中で整理がつくまではここにいていいと思ってる。そして、僕の中にある欲求が同時に満たせるなら、こんなに都合のいいことはないのだ。優しい人間を装って、自分にいいように相手を支配している。 最低でどうしようもない。 「いや、子供じゃないし…やんなきゃ、少しは」泰文君は小声で言った。 彼が今までどんなふうに周りの人間との関係を構築してきたのか、詳しいことまでは僕にはわからない。 失礼な言い方だけど、そんなに友達はいなかったのかもしれない。周りに信頼できるような人がいなかったんだろうか、それとも人を信頼するということが苦手なんだろうか。 不器用ながらも、彼なりに自分の仕事をこの家の中で見出そうとしている様子を見ていると、頭の奥がきゅーっと切ないような気持ちで締め付けられた。 「今日は僕は非番なんだ。どこかに出かけない?」泰文君は困ったような顔をしている。 「急に言われても、思いつかない」「それもそうだね…じゃあ、水族館は?僕、好きなんだ。ここから近いところにあるんだけど、どう?」「…いいですよ」 平日の昼間だからか、道路はすかすかだった。いつもこんな風だったらいいのに。 窓を開けると涼しい風が社内をぐるぐる掻き回していく。 隣に目をやると、泰文君は窓の外をぼんやりと眺めていた。前髪が風に揺れ、頬を優しくなでている。何を考えているのかわからない表情をしていた。楽し気とは言えないけれど、 どこか穏やかそうにも見える。だらん、と投げ出された手を握ったらどんな顔をするのか、ふと思った。 有名な水族館というわけじゃないけれど、僕はこの水族館が好きだった。コンクリートで固められた外観は、静かな藍色のグラデーションで、イルカのモニュメントが噴水の周りを飾っている。入り口にはそれしかない。でもそれが好きだ。子供を楽しませる気持ちがあんまりなさそうなこの雰囲気が、なぜか気に入っている。 入り口に入ってすぐ、縦に長い水槽の中を小さな魚が自由に泳いでいる。 「これなんだろう」泰文君がぽつりと言う。「アジだって」「つみれにするとうまいやつ?」 「はは、そうだね」「何杯くらいできるかな」「どうだろうなぁ…」ムードの欠片もない会話をしながら歩いた。 館内には親子連れやカップル、老夫婦など様々だった。スケッチをしている若い女の子たち、ベンチに腰掛けてコーヒーを飲みながらうとうとしているおじいさんもいる。 自由な空間だった。水槽を泳ぐ魚たちは、水槽の中でしか生きられない、自由を奪われた存在を眺めながら、人間は思い思いの自由な時間を過ごしている。なんだか残酷だと思った。 「一列になってねぇ」という間延びした声が聞こえる。振り向くと、幼稚園生たちが歩いてきていた。遠足なんだろう。おなかへったーと叫ぶ子、サメがこわいと泣いている子、賑やかな声が響いている。だけど、館内にいる人はだれも嫌そうな顔をしない。 「…遠足で」「え?」「小学生の頃、遠足で水族館行った」「そうなんだ」「なんか…名前わかんないけど、でっかい魚がいて、ずーっと見てた。そしたら、皆に置いてかれて、館内放送で呼ばれた」「それは災難だったね」緩やかなスロープを下りながら、他愛もない話をする。泰文君が自分の事を滅多に話さない。彼が話したいように話せるよう、僕は余計な言葉で遮らないよう相槌をうつ。一面寒色で覆われている空間は、自然と心の波が静かになる。 「いた」「ん?」「あれ、俺が見てた魚」泰文君がほんの少し歩幅を早め近づいた水槽の中にいたのは、ピラルクだった。淡いピンク色の鱗に覆われた体を揺らめかせながら、ぎょろりとした真っ黒な瞳で僕らを見た。照明が暗く、魚だけを照らしていて、未知の生き物を見ているようだった。 「なんか不気味」「確かに、ここまで大きいと少し怖いね」「瞬きしないからかな」「あぁ、それかなぁ…」 「あれと似てる」「どれ?」「高校の頃の友達の、俺を見る目」イルカショーのアナウンスが聞こえる。皆一斉にイベントホールへ向かっていった。 「なんか…期待とか、そういうのが一切ない感じ」「嫌な気持ちになる?」「嫌っていうか…しかたないかな、みたいな…だってそういう生活してきたし…」 僕らの足は自然と明るい方へ向かう。開けた空間に出て、そこにはエンゼルフィッシュたちがいた。 「親が…俺、母親しかいないんすけど、病気で」「通院してらっしゃるの?」「多分、いや…わかんない…もう何年もあってない」「そうなんだ」「後ろめたさが凄いっていうか…ちゃらんぽらんだし」黄色と黒のしましまたちは、長い触角のようなものを揺らしながら優雅に泳ぐ。僕らが話している話題の暗さなんか知らずに。 「ほんとうは、やってみたいことあった」「どんな事?」「忘れちゃった、けど…生き物と一緒に過ごす仕事みたいな…」「素敵だね」「でも、小学生の頃、クラスで飼ってた金魚が死んじゃって、それで、生き物って簡単に死んじゃうんだなって」「怖くなった?」「多分…そう、だと思う…俺にはできないなって」楽しそうな歓声がここまで響いてくる。 「先生みたいに、手術とか、そういう、命を助けるみたいなことは馬鹿じゃできないんだなって」 水槽の底から湧き出る小さな水泡は、きらきら輝きながら舞い上がっていく。 「泰文君は優しいね」「言われたことないそんなの」「僕はそう思ってるよ」泰文君が僕を見る。「君の友達がそう思わなくても、僕はそう思ってるよ」彼の瞳に映る水の泡たちが弾ける様子は何とも綺麗だった。 泰文君の手が、そっと僕のシャツの裾を掴んだ。その手をほどいて、僕の手と繋がせる。 泰文君が僕の手を振りほどくことは、無かった。

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