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*** (まき)文人(ふみと)が付き合っていた頃、文人はいつも通りを装っていたようだが、文人が誰か別の人を見ているのは、実咲(みさき)も気づいていたという。 アクセサリーなんて興味のなかった文人が、ある日から大事そうにペンダントを身につけている事に気づいた。何気なく尋ねれば、「星空みたいだったから買った」と言うので、見せてと言ったが、それを触らせてくれる事はなかったという。 実咲は、それが誰かと買った特別な物である事は間違いないと思ったが、それでも、文人は子供には愛情深く接してくれていたし、家には帰ってくる、だから実咲も、文人が他の誰かと思いを通わせている事には、気づかない振りをしていたという。 だがある日、町で文人が少年と並んで歩いている姿を見かけた。私服姿だったが、背格好からして、隣の少年は受け持ちの生徒だろうか、寄り添うような姿に、随分仲が良いのだなと最初は思っただけだったが、人目を忍んでその手が繋がれるのを見て、実咲は自分の目を疑った。その手はあっという間に離れていったけれど、愛らしい顔で文人を見つめる少年の姿を、彼の愛情を受け止める文人の柔らかな眼差しを、実咲は忘れる事が出来なかった。 天体観測部の活動の日、子供を母親に預けて様子を見に行った事もある。部活動なのに、やって来たのはあの少年一人。体を寄り添わせた二人の姿に、実咲はそれ以上その場にいる事が出来ず、そしてあの日、文人を問い詰めたという。 もう我慢が出来なかった、せめて相手が女性なら、また違っただろうか。文人が同性が好きだったなんて実咲は知らなかったし、気づきもしなかった、だって自分達は幸せで、子供もいて、なのに、文人は違ったなんて。信じられなくて信じたくなくて、この幸せを奪われたくなくて、その怒りをぶつける事しか出来なかった。 口論の末、子供二人を連れて実咲は家を飛び出した。 町は夜に呑まれ静まり返っている、前日に降り続いた雨のせいか、通りがかった橋の下では川の水かさが増し、まだ川の流れも速いように見えた。 文人はすぐに後を追ってきたが、実咲は冷静ではいられなかった。 まともに話なんて出来ず、少年とお揃いだというペンダントが胸元に揺れているのが許せなかった。家族が大事というならそれは必要ないだろうと、それを外させると、実咲はペンダントを橋の下に投げ捨てた。キラキラと放物線を描きながら、星は川の中へと吸い込まれ、その姿はすぐに見えなくなった。 良い気味だと、実咲は歩き出した。人のものを、人の幸せを奪おうとするからこうなるのだと、ペンダントに少年の顔を映し出していた。 しかし、駆け出した足音は側に寄るどころか遠退いていく。実咲が驚いて振り返ると、文人が橋から下り、河川敷へと続く柵を乗り越え川原へと足を下ろしていた。 「やっぱり捨てられないんじゃない!」 「違う!このままじゃ、僕は君の元に戻れないから」 この思いをしまいこむには、ペンダントをあの子にちゃんと返したい。もう家族以外にこの気持ちが向く事はないと誓う為に、分かって貰う為に。 文人がそんな思いを抱いていた事を、この時の実咲が知る筈もなく、例え言葉にされても、きっと信じられなかっただろう。 実咲は、川に入る文人を見ていられなかった。何が家族の為だと、結局あの少年への気持ちが簡単に捨てられないんじゃないかと。 もう、彼は自分の元には戻ってこないのだと知って、悲しくてやるせなくて、悔しくて。 まさか、これが最後の別れになるなんて思いもしなかった。 *** 「…翌日、警察から電話があって、あの人が亡くなったって…信じられなかった」 実咲は日記を抱きしめ俯いたまま、その後の事を、ぽつりぽつりと話してくれた。 文人は川原の石に頭を打って亡くなっていたという。体を川に晒したまま、雨のせいで川の水かさも増し、川の流れも早かった、川に上がろうとした所、足を滑らせたのかバランスを崩し、頭を打ったのだろうと。 周囲の目撃者もなく、朝方になって近くを散歩していた人に発見されたという。 その手に、ペンダントはなかった。 「なんで川に入ったのかなんて聞かれても、理由なんて言えるはずないじゃない。でも、何らかの原因で柵を乗り越えて、足を滑らせて頭を打った、事故です、なんて、そんな事であの人の人生を終わらせたくなかった」 実咲は、槙へと視線を向けた。涙で濡れた瞳が憎しみを被り、槙は射抜くような視線に、身を強ばらせた。 「あなたに彼を奪われたまま、終わらせたくなかった」 見えない手が喉元に押さえつけられたかのように、は、と息が苦しくなる。たじろぐ槙に気づき、咲良は槙の前に立った。眉を潜める実咲に、咲良は口を開いた。 「…槙ちゃんの事を知ってたとしても、どうして|久瀬ノ戸《くぜのと》の家の事まで知ってたんですか」 「先生達が教えてくれたのよ、あの学校の先生は、久瀬ノ戸槙の祖父がヤクザをやってる事を知ってた、不登校の理由とか中学の教師から聞いたんじゃない?それに、あの人が随分目に掛けていた事も。すぐにあの時の少年が、その人だって分かった」 そして実咲は、文人の死の原因を、教師と生徒の不倫、そしてヤクザの絡んだ自殺として、記者に情報を流したという。勿論、久瀬ノ戸の家が絡んでというのは、実咲の作り話だ。 世の中が騒ぎになり、詰めかけた記者達に、槙の祖父はその件に対し否定をしなかったという。 「…え」 さすがに、槙は驚いた。何故、祖父は否定しなかったのだと、信じられない思いだった。 「最初は否定したらしいけど、その内あなたが教師と無理心中を図ろうとしたとか、ある事ない事噂が飛び交って、そしたら否定しなくなったって。あなたを守る気でいたのかしらね」 実咲は嘲笑する、咲良が一歩前に出ようとしたのを、槙が後ろでその手を引いて止めた。実咲は笑いながら、泣いていた。 「…あなたが渡したペンダントのせいで、あの人は死んだのよ」 「それは、」と、槙に代わって反論しようとする咲良だが、それよりも先に実咲が頭を振って遮った。 「分かってる!私があの人の気持ちを信じきれなかったのが原因よ!でも、そんなのあんまりじゃない!あの人が最後に思ってたのは、結局あなたでしょ!?許せなかった…!」 実咲が槙を見て叫ぶのを、咲良は槙の前から動かず、ただ静かに口を開いた。 「…自殺じゃなかったんですね。先生は、事故だったんですね」 「当然よ!あの人がその人の為に死んだなんてあり得ない!でも、でも、それならどうしてペンダントなんか追いかけたのって…」 実咲は再び力なくその場に項垂れ、手元の日記に指を這わせた。 「…あんな事を言ってしまった。この日記に気づいたのは随分後だった、あなた宛の手紙も。でも、もう引き返せなかった、せめてあなたのせいにして苦しめてやりたかったのに…あの人は、私達を選んでいたなんて…」 「…生徒の気持ちを守りたくて、川に入ったんだね」 それまで黙っていたひなは、そっと実咲の傍らに膝をついた。 「お父さんの教え子って人、今も来てくれるもんね。思い出話たくさんしてくれる。生徒を大事にしてたの、私でも分かる。お父さんの記憶はほとんどないけど、自慢のお父さんだった」 ひなの言葉に、実咲は顔を上げた。「今でもそう思う」との言葉に、実咲は床に崩れ、ひなはその背を抱きしめた。 「…ごめんなさい、」 私がペンダントを川に投げなければ。 あなたの話をしなければ。 ごめんなさい。 そう泣き崩れる実咲に、槙は何も言葉にする事が出来なかった。 文人の死は事故だった。けれど、ペンダントさえなければ、自分が文人に憧れさえ抱かなければ、愛したりしなければ。 槙は胸元のペンダントをそっと手に取った。 文人は自分と別れようとしていた。 自分が文人の枷になっていたのは間違いなく、槙は頭の中が真っ白になっていくのを感じ、暫しその場から動く事が出来なかった。

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