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第三話「心配症」
「ただいまー」
織と一緒に住み始めて一週間弱が経ち、分かったことがある。一つは、彼がどうしょうもない廃人であること。もう一つは、この家の頼りない番犬パロは、どうしてか柏を嫌っていること。
「? ただいまー?」
しかし、今日はそんなパロが、珍しく玄関まで突撃してこない。いつもならすでに五、六ヶ所は身体に穴が空いているところだ。
「パロ? パルタール?」
靴を脱いで廊下を歩く。リビングに入った瞬間、目に飛び込んできた光景に驚いた。
「織!?」
織が、カーペットの上に、うつ伏せで倒れている。その横で、パロがクイクイと鳴いていた。
柏は慌てて彼のそばまで駆け寄ると、織の肩を掴んで強く揺すった。
「織、大丈夫か、織!」
反応がない。柏は大慌てで織の携帯を取り出した。落としかけたりしながら、何とか119番へ電話をかける。
「……すみません、救急車ですか!? あ、救急です。あの、同居人が倒れてて……はい、あ、住所、住所、えっと、分かんなくて……、……え、呼吸? 呼吸はしてます、でも……! はい、はい……」
しばらく会話をしてから、柏は電話を切った。救急車が向かってくれているそうだ。柏は祈るように携帯を持ち、一度息を長く吐いた。
「大丈夫だ、パロ。一旦ケージに入っててくれよ」
パロを抱き上げ、ケージの中へ入れる。パロは心配そうに、その場でウロウロしている。
「……大丈夫だ」
柏は、真っ青な顔をしていた。
「大丈夫、本当にただの貧血です」
「よかった……。本当に大丈夫ですか? 何か他に病気とか怪我とか」
「大丈夫です」
医者は食い気味にそう返した。先から、何度も柏が同じ質問をするからだろう。
「あーもう、マジビビった……」
「よかったね、何事もなくて」
「マジですよ。はー、よかった」
やたらぐいぐい話しかけてくる看護師は、柏が胸を撫で下ろす様子を見てくすくす笑った。ガキっぽい奴だと思われたかもしれない。
「お友達はあっちの部屋に寝てるから。ベッド一つしか使ってないからすぐ分かるよ。何かあったら呼んでね」
「あざした」
薄緑色のカーテンに手をかける。シャッと鋭い音を立てて、カーテンは横たわった血色の悪い男を見せた。
「起きてたのか」
「さっき起きた」
「そう。おはよう。気分どう?」
「…………気持ち悪い」
「吐きそう? 横に桶あるぞ」
織は首を振る。ゆっくりと瞬きをして、柏を横目で見た。
「……倒れても助けてくれないんじゃなかったのか」
「馬鹿か? 助けるに決まってるだろ馬鹿」
二度も馬鹿と言うと、なんだかそちらが馬鹿らしく見える。織はそんなことをぼんやり思った。
柏は椅子を引っ張ってくると、ベッドの横にどかっと座った。それから、織に繋がれた細い管を見て、嫌そうに眉をひそめ、ため息をついた。
「…………織さ、なんでそんなに自分に無頓着なんだ?」
尋ねると、織は二、三度目を瞬かせた。そんな反応をされると、まるで、こちらが何か不思議なことを尋ねたかのような気分になる。
「……俺の本が好きだろう」
「は? そりゃそうだろ」
柏がすぐに返答する。
「…………だから書く」
織は、淡々とした声で言った。
「……今の俺に、何か価値があるとしたら、書くことだけだろう。……書けば、書いて人に認められれば、俺のクソみたいな人生も、役に立ってると思えるんだよ」
柏が、一度目を大きく見開いて、それから真面目な顔をした。
「だから書く? 身体壊れても? 倒れて、パロにあんなに心配をかけてもか?」
だんだん言葉が荒くなる。織はぱちぱちと目を何度も瞬かせ、彼がどんどん怒りの表情を浮かべていくのを見ていた。
「……馬鹿言うのも大概にしろ! お前がいなきゃ、お前の作品は生まれねんだよ! 北条先生はすげえ人なんだ、大天才だ! なんでもっと自分のこと敬ってやれねんだ!」
柏は、織の手をぎゅっと握り、それを額に押し当てた。
「…………お前に救われた人間が、どんだけいると思ってんだよ」
柏はその手を更に強く握りこみ、震える声で言った。
「心配したんだ。よかった、無事で……」
織には、なぜ彼がこんなにまで、自分を心配してくれるのか、よくわからなかった。大事にはならなかったし、いつもの貧血だ。そんなに、泣くほど心配するようなことではないはずなのに。
「……柏、お前良い奴だな」
…………俺がどんな思惑で、お前を拾ったかも知らないで。
織は小さな声で呟いた。
瞼に薄く光が降ってくる。やわらかい光だ。織は布団を引っ張り上げてそれにくるまった。
すやすやとよく眠っている。柏は織の布団を一気に剥ぎ取った。
「うわ……!?」
「おはよう、織」
「お、おはよう……?」
織は現状を理解できなかった。柏が自分を見下ろしている。手には体温計を持っていて、それを織に手渡してきた。
「気分は?」
「だ、いじょうぶ」
渡されたので、とりあえず熱を測る。音が鳴った体温計を奪い取られ、織はやり場のない手をふらふらさせた。
「……よし、顔洗ってこい」
柏が、織の背をぽんと叩いた。
足元を、愛犬が嬉しそうにパタパタと走り抜けていく。
「……パロ」
顔に水がかかると、だんだん頭が冴えてきた。呼ばれたパロが、嬉しそうにワンと吠えた。
「…………いい朝だな、織先生」
「……あさ」
織はちらりと時計を見る。時計は8時5分を指していた。
「朝じゃないか」
「朝だよ」
柏は思わず吹き出した。
「『早起きは気分がいい。朝のやわらかい光の中で、用意された朝食の前に座れるならの話だ。』」
「……は?」
「京太郎が妻のハルに振られた翌朝の章の一文目だよ」
「……京太郎って、『春の夜明け』のか?」
「他にいたか?」
柏はケラケラ笑いながら、お茶の入ったコップを机の上に置いた。机の上には、白米と味噌汁、主菜に小鉢と、しっかりとした朝食が並べられている。
「春の夜明け」とは、妻にモラハラを繰り返す夫、京太郎が、妻と離婚してからの生活を描いた北条都築の作品だ。自分では何もできない京太郎の生活を、皮肉たっぷりに綴った、北条らしい作品で、彼の作品の中でも賛否両論大きく分かれているもののひとつだ。
「用意された朝食の前に座った気分はどうだ?」
「……どうしたのかなと」
織は思ったことをそのまま口にした。柏はもう一つコップにお茶を注ぎながら口を開く。
「俺は居候だからな。生活習慣ボロボロの家主の家事を代替してやろうってわけだ。分かったか?」
「……そういうのはいらないと言わなかったか」
「また倒れられたら困るだろ」
「けど俺は……」
文句をつけてやろうと柏の顔を見て、織の動きが止まる。柏は、今までにないほど真面目な顔で立っていた。
「……お願いだ、織」
何故、そんな深刻そうな顔をする。織は彼の思考が理解できなかった。しかし、いつも不真面目そうにヘラヘラと笑っている彼がここまで真剣な顔をするのならと、織は仕方なく頷いた。
「……分かったよ、もうなんでもいい」
「よかった」
柏は、またいつものぱっと明るい笑顔を浮かべた。彼の笑顔は、ご主人様に構ってもらえたときの犬によく似ている。なんと言い表すべきか分からないが、その整った顔が歪むのも気にせずに、いつも全力で笑っている。
「俺、心配性なんだ。あんまビビらすなよ」
「……柏が勝手にビビってるだけだろう。いつもなら、しばらくすれば起きられた」
「部屋で人が倒れてたら俺じゃなくてもビビるだろ!」
柏は椅子に座って手を合わせた。織も、つられて手を合わせる。じろじろと机の上を見渡して、感嘆の声を漏らした。
「……お前、すごいな」
白米、味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。この家のどこにそんな材料があったのか。大昔に、冷凍庫に何か入れたような気もしなくもないが、それにしても、この料理は素晴らしい。
「すごいだろ! 俺はイケメンだし料理もできる超絶ナイスガイなんだぞ」
「……腹立つな」
「んまぁ織せんせったら、照れちゃって」
「……はあ、お前に口があるのが残念だよ。黙ってりゃ……」
織はそこで言葉を止めた。誤魔化すように、ほうれん草を自分の口に突っ込む。甘じょっぱいような、優しい出汁の味がした。
「……うん? おひたし、まずかった?」
「…………いや」
「ほうれん草は栄養価馬鹿ヤバイからな、明日も作ってやるよ」
「……こんなことを毎日やる気か?」
「もちろん」
柏は当然という顔でそう言った。いいと言っているのにと織はため息をつく。
「俺、世話焼きでさ。こういうの好きなんだよ」
柏はニコニコ笑った。随分と楽しそうだ。
食費が少しでも安く済むなら、それもいいかもしれない。
「……いつ飽きるか見ものだよ」
織は呟いた。
皮肉屋め、と柏は苦笑をこぼした。織は白米を口に入れる。魚の身を箸でほぐし、それも放り込んだ。久しぶりに、こんなにしっかりした食べ物を食べたかもしれない。柏の料理は、優しく懐かしい味がした。
「……悪い、もう食えない」
織が、白米をすべて食べきったところでそう言った。いつもしっかりとした食事を取らない織にとって、この朝食は量が多すぎた。
「だろうな。よく食べたほうだろ。……あ、味噌汁だけ飲んどけよ。めっちゃわかめ入れてんだから」
「ん」
味噌汁茶碗を持ち上げる織を見て、柏が満足そうに笑った。柔らかくて、暖かくて、まるで春の陽射しのような眼差しで。織は目を奪われた。
京太郎から見た嫁のハルは、もしかしたら、こんな顔をしていたのかもしれない。
織はゆっくりと茶碗を下ろし、ごちそうさまと呟いた。
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