4 / 10
第四話「柏の秘密」
柏が織の家に住み始めて、早数週間が過ぎた。夏らしい日差しと蒸し暑さに、柏はパタパタと手で顔を仰ぐ。道の隅で友人と固まって騒いでいた柏に、何かがぶつかった。
「わ!」
「わ、スミマセン、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい! 私、前を見てなくて……」
「いや、俺の横幅がデケェもんだから。怪我とかないですか?」
柏は女性に手を差し伸べる。女性は頬を染めて立ち上がった。
「あの、ごめんなさい。ありがとうございました」
「大丈夫ですよ。これ、落とし物」
「あ、ありがとうございます!」
「一年生だったんだ。勉強がんばって」
柏がにかっと笑うと、彼女は一瞬頬を真っ赤に染めた。それから、はいと小さな声でひとつ言って、パタパタと走り去って行く。
「柏ぃ、お前どういうつもりだよ」
後ろから、ぬっと、友人の林が顔を出す。その後ろから、渡という友人も睨み顔で出てきた。
「何?」
「何? じゃねぇよ。爽やか好青年ぶりやがって! あの子完全お前に一目惚れだろ」
「いやぁ、俺モテちまうなぁ……」
「中身が野生のアホゴリラだって誰か教えてやれよ」
「ゴリラ、賢いのにアホを頭に付けられて可哀想……。ゴリラに謝れ、柏」
酷い言われようだなと柏は苦笑した。柏は決して勉強ができないわけではなく、むしろ得意な方なのだが、天然な性格のせいでよく阿呆だなんだと言われる。
「いいなあ柏は」
「柏がいる合コンレベル高いって噂どこからも聞くかんなぁ」
「当の本人は合コン行っても酒と食いもんのことしか頭にねぇのがさらに腹立つよな! 『彼女とかいらねぇし』とか言いやがってさ!」
合コンなんか行っただろうか。柏はぼんやり考えた。もしや、先日の飲み会のことを言っているのだろうか。だとすれば、彼らの勘違いか、自分が鈍すぎて誰かを傷付けていたかのどちらかだ。
「ほんとに、俺には彼女とかもったいねぇって」
「とか言って、さらっとお持ち帰りしちゃうんでしょ」
「やだぁ! とーきくんのゴリラぁ! 今度の合コン来ないでぇ!」
「お持ち帰りとかしねぇよ。あと合コンも行かない。だいたい、今は織の世話で忙しいし」
「……織?」
今まで黙っていた堺が、突然口を開いた。数名でいるときの彼は本当に口数が少なく、大抵口を挟むことはない。こんな反応をするのは珍しいことだった。
「ああ、織。北条先生な。……珍しい名字だよな。北条都築はペンネームなんだってさ」
「…………織、か」
堺はゲーム機をリュックにしまうと、今度は携帯を取り出した。歩きながらゲームをすることにおいては、本当に特技と呼べるレベルだと感じる。
「……あ、柏、お前次こっちじゃねぇだろ」
「あ、そうだわ。じゃーな」
「おー」
柏は手を振りながら、細い道に入っていった。遠くからでもよく目立つ奴だ。それは彼の身長が高いからというよりは、彼が、何故か人を惹き付ける魅力を持っているからだ。
「『俺には彼女とかもったいねぇって』」
「柏の真似? めっちゃ似てねぇ」
「似てるだろ! ……でも、あんなこと言いながらさ、アイツ前彼女いたことあったよな」
「ああ、あの……、二年のとき、だっけ?」
「そうそう! 懐かしー! うわぁ……! 名前なんだっけな……!」
「え、林、彼女の名前聞いたことあんの? 柏のヤツ、俺には教えてくんなかったのに! ……堺はきいた? 覚えてねーの?」
後ろから、スマホを持って無言でくっついてきていた堺は、一度少し顔を上げ、再び俯いて答えた。
「……知らね」
「うわぁ、誰だっけなぁ……!」
「そういうとき絶対思い出せないヤツ」
「いや、もうこのへんまで出てる」
林は喉に手を付けて言う。渡は、顎に指を当てて話し始めた。
「二年のときって言ったら、アレ? ほら、アレに柏が関わってるって噂になってた」
「ああ、アレ。あのクソの集まりな」
渡は嫌悪感を抑えきれない様子で顔をしかめた。
「……柏が恋人に振られたの、絶対ソレのせいだとおもわない?」
「分かる。アイツのことホントに分かってりゃ、そんなことするやつじゃねえって分かんのにな」
林と渡はため息をつく。
「……意外とわかんねぇだろ、人の内側とか」
堺が呟いた。林と渡は、珍しく自分から発言した堺を不思議な顔で見る。顔を上げた堺と目があったその瞬間、林はぱっと目を輝かせた。
「そうだ! 辻さんだ!」
ぴくりと堺が反応する。
「ほら、辻さん! 確か堺の紹介だっただろ」
「そうだっけ? 俺知らねぇけど」
堺はにこりと笑った。
「ウケる、林間違って覚えてんじゃねーか。はい解散解散」
「うっそ、マジで堺知らねぇの!? 辻さんだよ、ほら、えっと……何学部だっけ」
「学部も分かんねーなら勘違いだろ。つか早く行こうぜ」
渡は面倒くさそうに林を呼ぶ。その後ろを、探るような目をして堺が歩いていった。
「……北条先生、ですよね」
「え」
突然、知らない人間に声をかけられ、織は動揺した。明るい茶髪で黒縁のメガネをかけた青年は、自分とほぼ変わらないくらいの年に見える。
「貴方は?」
「堺祐輔 。柏の友だちです」
「あ、ああ、君が」
確か、柏がよく話している、友人の一人だ。サカイ。特に仲の良い人物として記憶している。しかし、彼がなぜ自分に。
「……ちょっと話聞かせてもらえませんか?」
堺は、ぎこちなく笑った。
あの日柏に連れてこられたカフェ。そこに、堺は織を連れてきた。カラカラとリンゴジュースのストローを回しながら、堺は口を開く。
「…………貴方にどんな思惑があるか知りませんけど、柏はやめたほうがいい」
「え?」
突然飛び出した訳のわからない言葉に、織が聞き返す。
「柏が過去、何をしたか知っていますか? 知らないなら教えてあげます。だから早く、あいつを……」
「ひ、必要ない」
織は大きく首を振った。
「……柏の過去の話なら、柏から聞く」
「……柏から、柏の黒歴史が聞けるわけ無いでしょう」
「それなら、俺はそれでいい」
堺は、眉をひそめて、あからさまに嫌悪の表情を示した。
「……知りたくないわけですか」
リンゴジュースを啜り、彼は不機嫌そうに一つ息を吐く。織はまっすぐに堺を見たまま尋ねた。
「……君はなんだ? なぜその話を俺にしに来た?」
「警告です。柏はやめとけって」
「……やめとけって、さっきからどういう意味だ?」
「北条さん、柏が好きでしょ。だから、家に置いてやってる。違いますか?」
織の人差し指がぴくりと跳ねた。
「……好き?」
「ああ、友情じゃなくて。恋愛的に」
「俺はゲイじゃない」
「……冗談。“アレ”で女が抱けるはずない」
「……なんのことだ」
「とぼけるんですね、いいでしょう」
堺は、持っていた鞄を膝の上に載せると、チャックを開いた。嫌な予感がする。織はじっと彼を見つめた。
「…………乱暴されるのが好きだって言ってましたよね。何人にも回されて気持ちよさそうにしてた」
「……何の……」
「同じ大学の先輩だったでしょう、織真都さん」
堺は、鞄から取り出したUSBメモリを振ってみせた。腹に、癖のある字で、“No.12”と書かれている。織は、さっと血の気が引いた。
「…………見覚えあります?」
「……ない。……知らない」
「そうですか。パソコン開いていいですか?」
「…………なぜ?」
「このUSB、確認しようと思って。駄目なんですか?」
「なぜ今なんだ?」
「中身気になっちゃって。知らないんですよね?」
堺はパソコンを取り出して、電源を入れた。織の方を煽るようにチラチラと伺いながら、USBメモリのキャップを開ける。
USBメモリがパソコンに差し込まれようとしたとき、とうとう織は手を出してしまった。
「やめろ!」
堺はにやりと笑う。
「……どうしてです?」
「もういい、分かった、俺はその中身を知ってる!」
織は、彼とは思えないほど力強い声で答えた。堺は、いつもの無表情のまま、USBメモリに蓋をする。
「……そうですか」
パソコンを閉じると、彼はバツが悪そうに目をそらした。
「……勘違いしないでくださいね。俺はゲイが嫌いとか、そういうんじゃないです。この動画を持ってたのはたまたまだし、持ってきたのは貴方の性的指向を確認したかっただけ。偏見とか差別とか、今時クッソダサいですからね」
堺は織にUSBを手渡した。織は苦虫を噛み潰したような顔で俯いている。
「……中身、しっかりは見てませんよ。俺の目的は別だったので」
何もあんなふうに言わなくても良かったかもしれない。堺は目を逸らす。意地の悪いことを言っても謝れないのは、自分の悪いところだと思う。誰に対しても、傷つけるような言葉を吐きっぱなしにする。性格の悪い奴だと、自分でもウンザリする。
「貴方を心配しているだけです。……柏は駄目だ」
「……俺は柏が好きだなんて言ってない」
「違ったなら違ったで構いませんよ。ただ警告に来ただけですから」
堺は手をヒラヒラ振り、ストローを咥えた。氷だけがコップの中に残る。
「貴方が知りたくないと言うなら、別に俺は何も言いません。ただ、柏は、本来貴方の敵で、大嘘つきです」
敵。大嘘つき。
堺は仲の良い友人として記憶していたが、それは、柏から見た彼なのかもしれない。
「君は、柏が嫌いなのか?」
「……いいえ。俺は柏を信じてるんです」
頼むから、信じさせてくれ。堺は、コップを強く握りしめて俯いた。織は怪訝そうに首を傾げた。
織と堺は、会計を済ませて店を出た。歩道へ出たとき、堺が、一枚のファイルを織に差し出した。
「……これ、貴方の資料です。コピーもデータも、この他にはありません」
「どこでこんなもの……」
「なぜあの、貴方たちを苦しめた組織が解体されたか、覚えていますか?」
織が目を見開く。
「……まさか、アレは君が?」
「あは、いいえ。俺は、そんな大胆なことはしませんよ」
堺は笑いながら答えた。
織が、じっとUSBメモリを見つめている。
この中には、地獄が詰まっている。自分を苦しめた、あまりにも凄惨な地獄。
織はUSBメモリを握った左手を、思い切り振り上げた。
「…………っ、…………」
しかし、その力はどこかへ放たれることなく、ゆらり、と左手は力を失う。堺が眉をひそめた。
「……織さん、貴方……」
織は俯く。
恨めしい。憎い。自分の人生を大きく狂わせた、この存在が。
けれど、死んでしまいたいほど憎いのと同時に、どうしてか、それを大切だと感じてしまう。
だって、これだって愛なのだ。
「……クソ……ッ」
USBメモリを握りこむ。捨てられない。憎い。嫌いだ。見たくもない。けれど、自分は、彼との繋がりを、捨てられない。
USBメモリを、織は上着のポケットにしまった。堺が、好きにしろと言わんばかりの呆れ顔で、ひとつ息を吐いてから、織に頭を下げて帰っていった。
家に帰ると、途端にどっと疲れが襲った。ぐるぐると目眩がする。足元でぱたぱた走るパロをいなす。堺から貰った資料を、本棚の隙間に差し込み、USBメモリを机の上に置いた。
気分が良くない。織は椅子に座ると、机に突っ伏した。くらくらと、まぶたが落ちてくる。
「……おーり、ちょっといい?」
自分を呼ぶ、甘ったるい声にはっとする。織はゆらりと振り返った。
「……何?」
「何って冷たいな。わかってるだろ?」
明るすぎる金髪を携えた男が、織の肩を掴む。するすると手が腰に滑り、織は首を振った。
「……今日、は、だめだ……、明日、小テストが……」
「真面目かよ! 大丈夫だって、お前なら楽勝だろ?」
「……けど、俺は……」
男は、織の頭を撫でる。その優しい手つきに、織の口が、動かなくなる。
「な、織、俺のこと好きなんだろ?」
織はゆっくりと頷く。彼は再び織の頭を撫でた。
「織みたいな嫌味ばっかりのヤツ、誰も好きになんねえって」
「……分かってる」
「だろ? 俺が我慢してやってんだよ」
彼は織の背を叩く。
「なんだよ、そんな顔すんなって。大好きだぜ、織」
その一言で、自分は何でもしてしまう。自分が求められているのなら。彼が、自分を求めてくれているのならと、織は頭で繰り返す。
106教室という看板の上から、“闇”とガキ臭い張り紙のしてある、暗い教室へ入る。遮光カーテンと、手術台のように並べられたベッド。それを囲む無数のライト、カメラ。
ベッドの上に乗り上げると、隣で、もう随分見慣れた女が織に笑いかけてきた。カメラの前で服を脱ぐ。
「……それじゃ、No.12、No.5、対照実験開始」
なんだってする。だって彼が求めてくれているのだから。彼が、自分をここまで大切に扱ってくれているのだから。
「織、やっぱお前最高。ホントにエロいこと好きなのな」
「…………うん」
“研究”が終わると、彼は一番に織の元へ駆け寄ってきて、頭を撫でた。織はほっとする。
「あは、やば、ド変態じゃん。な、今度は輪姦が見たいんだけど……」
苦しくもない。辛くもない。気持ちが良くて、愛されていて気分がいい。…………けれど、何故こんなに、寂しいのだろう。
「……り、おり、織って、おい……織!」
「ん、……ん……」
「風邪ひくぞお前……」
柏の声がする。織は机に再び突っ伏して、柏の声を遠ざけようとした。柏がため息をつく。
柏は机の上を片付けながら、織が起きるのを待った。どこかに出かけてきたような服装だが、どうやら外出したせいでこんなに疲れているようだ。苦笑を溢していると、机の上に見慣れないUSBメモリを見つけた。
「……なんのUSBだこれ。あ、なんか書いて……」
手に取ると、USBメモリのカバーに、癖のある字で何か書いてあるのが見えた。
「…………NO.12?」
呟いた瞬間、織がすごい勢いで起き上がり、柏の手を掴んだ。
「や、めろ……!」
「うぉ、起きてたのか。なんか大事な資料とかだろ? これ。ちゃんとしまっときな」
「……ああ」
織はUSBメモリを受け取ると、すぐにポケットにしまった。柏が変な顔をしている。
「……珍しいな、織がそんな焦るとか。何が入ってんの? AVとか?」
「……っな、わけないだろ」
「だよな」
柏がケタケタ笑いながら、袋から食材を取り出す。織が渡している少ない食費で、よくもまあこんなに買ってこられるものだ。織は心の中で感心した。
「……でも、なんかそのUSB、どっかで見たことあんだよな……」
「…………見たことがあるのか?」
「いや、USBは有名なやつだし当たり前か。なんだろうな、その字の感じとか……めっちゃなんかこう……嫌な感じがこう……蘇って……。うーん……」
「柏が過去何をしたか知っていますか」と言っていた、堺の言葉が引っかかる。彼はその話の流れで、わざわざこれを持ってきた。更に、柏を「織の敵」と表現した。
――もしや、柏は、彼らと関わりがあったのか?
「……柏、お前、大学で変な噂とか聞いたことないか」
織は尋ねた。柏は、料理をしながら、振り返らずに答えた。
「変な噂……? 美術館の作品が動くとか? あ、教育学部の2号館に女のおばけが出るってのも有名なやつだよな」
普段の天然なのか、嘘なのかわからない。織は、すぐに、畳み掛けるようにして尋ねる。
「……106教室、とか」
「106? あ、もしかして、封鎖されてるとこ? あれ、なんで封鎖されてんだ? おばけが出るとか? そんなことで封鎖はしねぇか」
柏は、いつもと変わらない穏やかで気の抜けるような声で答えた。織は、ゆっくりと息を吐く。ほっとした。
「……俺の知るお前はそういう奴だ」
柏は見た目こそ軽薄な遊び人のようにしているが、その実ただの純粋な青年だ。おそらくだが、性交渉の経験もないような。
柏はガシャガシャと乾燥機の中を漁る。
「あ、織、あっちから皿出して」
「ああ」
柏がフライパンから手を離すのを見て、パロが餌皿の前に座った。
「お、パロ! ご飯の時間が分かるのか? お前はなんて賢いんだ!」
夕飯の支度を終えて、二人は席につく。織が、いただきますと手を合わせると、柏も満足げな顔をして手を合わせた。
真っ先に、茶色く煮られた大根を口に運ぶ。味がよく染みていて、とても美味しい。織がおかずを何度か口に運んでいると、柏が嬉しそうに話しかけてきた。
「うまいだろ、それ」
「……まあ」
「うまいよなぁ、分かるよ。めっちゃうめぇもん」
どこからそんな自信が湧いて出るのか、彼は自分で自分の料理を褒め称えながら頷いた。柏が朝から準備をしていたのは織も知っていたため、時間をかけてくれたことには素直に心の中で感謝した。
「パロは賢いな。こんなに美味しくても人の食べ物を絶対にねだらない」
柏はニコニコ笑いながら、パロの頭を撫でた。パロが、彼の親指に噛み付く。痛くないので、柏は更にパロの頭を撫で回す。最近は、甘噛みであることが増えた。
織は、茶碗と箸を一度置いてから尋ねた。
「……なあ、柏」
「うん?」
「今日、堺という人に会った。知り合いだろ?」
「ああ、おう。友だちだけど」
「…………彼と何かあったのか? 何か、恨まれるようなことをしたか?」
「え、堺何か言ってたのか?」
柏はぽかんとして首を傾げた。
「……いや、ないならいい」
織は再び米を口に運び出した。味の染みた茶色い大根と鶏肉は、白いご飯がすすむ。
「…………あ、そういやこれ買ってきたんだけど」
「食事中に席を立つな」
「三秒ルール三秒ルール。はいこれ」
「…………たい焼き?」
袋に入った、手のひらサイズのたい焼きを差し出され、織は首を傾げる。柏はこくりと頷いた。
「カスタード入ってるやつ。美味しそうだったから」
「いや、そんなことをきいてるんじゃない」
「え? ああ、そこのコンビニで買ったけど……」
「違う。何故買ってきたんだときいてるんだよ」
「ああ! デザートだよ。このくらい食べられるだろ?」
織はたい焼きと夕飯を交互に見て、ため息をついた。
「なんでデザート……」
「太らそうと思って。織痩せすぎだろ」
「……これは筋肉だから痩せて見えるだけだ」
「骨と皮しかねぇだろ! 今ここで腕立て伏せ対決するか!?」
「席つけ」
織は顔をしかめて柏をなだめる。柏はゆっくりと椅子に戻った。
「……デザートって言ったって、俺は飯だけでお腹いっぱいなんだが」
「夜食にしろよ」
「……太るだろ」
「太らせようとしてんだよ」
健康的にな、と柏は笑った。
「俺が出てくまでに織を健康体にするって決めたんだ。文句言うな」
織ははっとした。そうだ、コイツは出ていくのだ。短くて三ヶ月、長くてもその先数ヶ月。冬の終わりには、もう彼はここにいない。
「……なんだよ。あ、冷蔵庫にあるケーキは俺のだからな」
「そんなことはどうでもいい」
「俺は北条先生がたい焼き好きだってエッセイに書いてあったの思い出して、わざわざ探しに行ったんだぞ」
「俺の金だろう」
「……まあ確かにお前の金だし……ケーキは……食べてもいいけど……。……なんだよ、ちゃんと金は来月返すよ」
「……返さなくていい」
返さなくていいから……。
馬鹿なことをと織は首を振った。柏が首を傾げる。織はそっと手を合わせた。茶碗は全て空になっていた。
ともだちにシェアしよう!