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第五話「救世主」
働くという行為が好きだ。自分が誰かの役に立って、少しの対価を頂く。この行為が、この上なく楽しい。
「聞いたぞ、柏。お前ん家全焼したんだろ。なんでもっと早く教えてくれねぇんだよ」
「えっ」
しかし、こういうところは面倒だと、バイト先の先輩に話しかけられながら、柏は思った。
黙っていたのに、一体どこから漏れたんだろう。柏は困惑した。
「まさかあの意味わからん発火原因で燃えたアパート、お前ん家だったとはなぁ」
幸い、彼は柏のことを心配してくる様子はなかった。柏はほっとする。よく知らない他人に心配されると、迷惑をかけたようでどうにも居心地が悪くなるのだ。
「今どこに住んでんの?」
「知り合いの家に」
「へえ、女?」
「男ですよ」
柏は答えた。男は一瞬驚いた顔をしてから笑った。
「柏なら絶対女だと思った」
「はー? 俺を何だと思ってんです」
「いや、お前の大学の先輩ら、口を揃えて『柏はヤリチンだ』って言うからさぁ」
「うわ、でた。俺のイメージどうなってんだよ。謂れ無ぇー」
この顔つきのせいか、柏にはよくそのような噂が立つ。一度、あまりにも酷かった頃に髪を黒染めしたこともあったが、大した効果は得られなかった。
「実際どうなの? 柏の顔があれば女の子たち一晩二晩くらいは泊めてくれるでしょ」
「それ俺のことも女の子のことも馬鹿にしてるでしょ」
「いやいや、絶対そうだって」
柏はロッカーの扉をしめる。財布だけをポケットにしまい、ヒラヒラと手を振る。
「お先失礼しまーす」
「うわ、逃げるつもりか? なぁ、柏、女にお礼するときってさあ……」
「はーい、お疲れ様でしたぁー」
「逃げんなよ、柏! なあ!」
先輩が柏を追いかけて肩を掴もうとしたとき、休憩室に別の従業員が入ってきた。
「おい! お前いつまで着替えてんだ! さっさと入れ!」
「うお、サーセンサーセン」
先輩はそそくさと休憩室を出ていく。柏は苦笑を溢してから、店を出た。
「……あっちぃ……」
柏は思わず呟いた。
町中というのは本当に蒸し暑い。夜になっても、涼しさの気配すら感じられない。昔住んでいた町では、こんなことはなかったのに。
しばらくして家の前に辿り着き、インターホンを押す。すぐに織が出てきて、ドアを開けてくれた。
「ただいまー」
「おかえり」
最近では自分も彼も、当たり前のように“ただいま”と“おかえり”を言い合うようになってしまった。この家と、彼との生活があまりにも心地よいものだから、つい気が緩んでしまう。これが良いことなのか悪いことなのか分からないが、この生活は、自分の求めていたものなのだと強く感じられる。柏は織をちらりと見下ろした。
「あれ、珍しい。ヨソイキじゃん」
「今日は打ち合わせだったからな。新刊の発売日の確認とか諸々やりに行った」
「マジで!? ヨッシャ、いつ!?」
「ら、来週……。SNSでも告知して……いやお前携帯もないんだったな」
柏は上機嫌で靴を脱いだ。
「北条先生の新作だってパロ! パロ!」
「うるさい」
その時、柏が、はたと動きを止める。それを見て、織が、訝しげに首を傾げた。
「……え? 俺金ないじゃん」
「……そうだな」
当たり前のことを言われて、織はてきとうに返事を返した。柏が、この世の終わりのような顔でわなわな震えだす。
「お、織、新作の発売は二週間後にならないか?」
「なんで」
「その日が給料日なんだ! 俺は北条先生の本は発売日当日に買って読むって決めてんだぞ!」
「献本なら……」
「駄目だ! 俺は、定価で当日書店から買いたい派なんだ」
「…………そういえばお前俺のファンだったな」
それも、面倒なタイプの。
柏は、しょんぼりしょげてしまった。
「それに、今回はサイン会がある」
「……は?」
「サイン会だよ、新刊買ったらサインしてくれるって前帯に書いてあっただろ! まさかなくなったのか!?」
「いや、お前、来るのか? サイン会」
「当たり前だろ、大ッファンだぞ。処女作からの!」
織は、なんだか彼が可哀想になってきた。ここまで北条都築を好いていた人が、かつていただろうか。
織は右手で、ペンを持つような仕草をした。
「……サインしてやろうか?」
「今もらったら織からのサインになっちゃうだろ!」
「面倒くさいやつだな……」
つい本音が溢れ出た。織には、時折、彼自身でも気づいていないような本音が出る癖がある。柏は、三日飯を抜かれた犬のようにフラフラと歩いた。
「お前は俺にとって北条先生がどれほどの存在か知らねぇからそんなこと言えんだ……」
「……俺、北条都築。俺。目の前で言うな」
「お前は織だろ!」
織はじとっと柏を見つめる。本当に面倒なやつだ。
柏はしょんぼりした顔のままキッチンに立つ。炊飯器がカタカタと音を立てているのを見て、嬉しそうに織を振り返った。そのまま、ストンとしゃがみこむ。
「…………ありがとうパロ、ご飯を炊いておいてくれたんだな」
「俺だよ」
「知ってるよぉ……。織ぃ……いいやつだなぁお前は……」
「……やめろ、やめろ」
柏が立ち上がって織の頭を撫でると、織がすぐにその手を払った。織の足元で、パロが嬉しそうに尻尾を振っている。柏はしゃがみこむと、パロの頭もワシワシ撫でた。
「……北条先生はさ、俺を救ってくれたんだ」
「……お前、本読むタイプに見えないけど、どういう経緯で北条都築の本なんか読んだんだ?」
「俺はちゃんと読書家だよ」
柏はケラケラ笑う。立ち上がり、キッチンの前に立つと、手を洗い始めた。織は、キッチンのそばにある食卓の椅子に座った。
「……でもお前の言う通り、北条先生と出会うまでは本読むタイプじゃなかったよ」
「……それがどうして、そんなことになるんだ」
「聞きたいか?」
柏はにまっと笑って、手を洗いながら振り返る。織は少し迷った末、こくりと頷いた。柏は嬉しそうな顔をして、料理をしながら話し始めた。
北条都築がデビューした年。柏冬樹は、高校三年生だった。受験シーズンの真っ只中で、周りはみんな少し荒れていた。
当時の柏少年も、受験勉強で忙しかった。国立大学の農学部に受かること。これが、彼の目標だった。しかし、彼はこのとき、それ以上の問題を抱えていた。
「母さん!」
「あら、冬樹」
病室のドアをガラガラと開ける。大きな音に、母はくすくす笑った。
「あらじゃねぇよ、大丈夫?」
「冬樹は優しいね」
「優しいねって……。……母さん、また危なかったって……。俺、俺……」
「大丈夫。冬樹が大学合格するとこ、母さんは見るんだから!」
母は元気そうに、ガッツポーズを作ってみせた。その腕が、頬が、げっそり痩せて青白い。
「…………冬樹?」
「……俺、やっぱり大学やめて就職する。母さんの病気治す」
「大丈夫だって! 母さんは強いんだよー」
たくさんの管の繋がれた母の姿は、見ていられるものではなかった。昔から身体が弱い人だった。よく体調を崩すものだから、幼い頃から、すぐいなくなってしまいそうで怖かった。お人好しな性格は、きっと彼女のせいであり、おかげである。
「冬樹はおいしいごはん作るんでしょ。そのために農学部で勉強するんでしょ」
「でも」
「とーき」
やわらかい声。母の声。少し掠れた、弱い声。
「大丈夫。冬樹はイケメンさんで優しいから、何をしてもうまくいく。母さんは冬樹の母さんだけど、冬樹の一部じゃない。……冬樹は冬樹のしたいようにして。母さんのこと気にしたらだめ」
母は、ゆっくりと柏の身体を抱きしめた。温かい。骨ばった身体が、じんわりと温かい。
「冬樹は、ごはん作るの好きだもんね」
「……うん。大好き」
「…………嬉しかったなぁ。冬樹が、もっとおいしいごはんが作りたいって言ってくれたの。母さん、お医者さんになるって言い出すんじゃないかと思ってたから。嬉しかったなぁ。母さん、貴方の重りじゃなかったんだなぁ」
柏はポロポロと涙を溢した。それがなんの涙なのか、わからなかった。
「…………母さん、本当にげんき?」
「もちろん、元気いっぱいよ」
母はケラケラ笑う。太陽のような笑顔で、柏を抱きしめる。柏はほっとした。母は昔からよく体調を崩す人だった。しかし、いつも絶対に柏の元へ帰ってきてくれた。
「よかった。……今度帰ってきたら、俺今度は母さんの好きなハンバーグ作るね」
「やったあ。嬉しいな、ありがとう、冬樹」
柏はゆっくりと手を離す。母が、目を細めて、柏を慈しむようににこりと笑う。自分と母は、よく似ていると誰かに言われたが、こんなに優しい微笑みは、きっと自分にはできないと、柏は思った。
柏は病院を出た。家に帰り、一人で料理をつくる。次に病院に行くときは、何を作っていこうか。冷めても美味しいものなら、きっと母は何でも喜んでくれるだろう。
次の日、柏は病院からの電話で、学校を早退した。それから一週間以上、柏は学校へ顔を出せなかった。柏の家の事情など知らないクラスメイトたちは、受験直前に突然いなくなった柏を不思議がったらしい。
学生服のまま、フラフラと街を歩く。悲しさも怒りも、何故かその時、彼にはなかった。人に心配されたくないという不器用な性格のせいか、彼は今までと全く変わらなかった。「おはようございます」と笑うと、近所の人に不謹慎だと叱られた。
ぼんやりしていたせいか、視界が良くなかったせいか、柏は偶然、ドンと誰かにぶつかった。相手の驚いた声がして、慌てて柏は顔を上げた。
「…………スミマセン、前見てなかった。大丈夫ですか?」
「は、はい」
女性は茶色いエプロンを着て、段ボール箱を抱えていた。ちらりと横を見ると、森書店と看板に書かれていた。
「……ここの書店員さんですか?」
柏が尋ねると、女性はこくんと頷いた。
「…………なんで書店員さんに?」
「え?」
「あ、いや、スミマセン」
柏はヘラっと笑う。女性は、少し迷ったあと、柏を店に招き入れた。
「……本読んでるときは、時間を忘れちゃって」
「時間、を」
「映画でも漫画でもアニメでもいいんでしょうけど、私にはこれが一番かな。文字しか情報がないから、一番没頭できるっていうか……」
柏は、このとき、生まれて初めて、本というものの利点を理解した。もしかすれば、本を読んでいれば、他のことを考えなくていいのかもしれない。
「…………オススメありますか?」
気付けば尋ねていた。じっとしていられない性分の自分が、本など読めるはずがない。そう思ったが、今は、何か没頭できるものがほしかった。
「オススメ? えっ、えっと……そうだな、オススメはたくさんあるんですけど、ミステリーが好き? ホラーとか?」
店員は楽しそうに話し出す。柏は首を傾げた。改めてそんなふうにきかれてしまうと、なんだか自分は本を読んだことがないような気がしてきた。ふと、棚に広く並べられている本が目につく。
「これは?」
「ああ! それは話題の新人作家、北条都築先生のデビュー作『愛執』です! 私まだ読めてないんですけど、評判は賛否両論ぱっくり分かれてて、早く読みたいなぁって思ってるんですよ」
「じゃあこれにします」
彼女は驚いた顔をしていた。柏はくすっと笑う。
「……賛否両論あって、それでも話題になるくらい、面白いんでしょ」
女性は嬉しそうに頬を赤らめて、はいと笑った。
帯に“話題の新人作家”という期待をでかでか乗せられて、彼は重くないのだろうか。柏はペラペラ本をめくりながら思った。表紙には、二人の男女のような絵がつけられている。
北条都築。お堅い名前通り、本に特に凝った装丁などは見られなかった。柏は、気乗りしないまま、1ページをめくった。
北条都築のデビュー作は、悲恋を描いたものだった。恋愛の気味悪さを誇張して描いた、ひねくれた作品だった。
主人公の良子が、彼氏の隆に依存していくさまは本当に不気味で、朗らかだった隆の性格がどんどん変わっていくところが、やけにリアルで恐ろしかった。お互いを自分の血で汚し合い、ベトベトにして棺桶に放り込むような、なんとも言えない嫌悪感。彼らを襲い来る、生々しい理不尽と、それを乗り越えようと苦しみもがいても、乗り越えることを決して許さない世界観。
それは、非現実的でありながら、現実味を帯びすぎていて、柏は本と自分の境目が分からなくなっていくような感覚がした。
「…………あれ」
気がつけば泣いていた。本の中に、悲しいことが起こったのではない。ただ、自分の外壁が、この本によって、突然ガラガラと崩されたのだ。分厚く繕った笑顔の仮面も、その下でキラキラ光る明るい壁も、全てが、今、無意識の下に、北条都築の手によって、ガラガラと崩れ去った。自分の一番深い場所が、涙を流した。
「……なんで……」
ああ、自分は悲しかったのだ。寂しかったのだ。柏はやっと、自分を理解した。自分は失ったのだ。たった一人の家族を。
北条の書く世界は、まるで鏡に映された現実世界のようだった。自分と世界の境目が、溶けて分からなくなるほど、彼の世界は生きていた。
読むんじゃなかった。柏はぼんやり思った。彼の本は、自分の心と向き合う時間を減らしてくれる都合の良い本ではなく、自分の心をむき出しにさせる本だったのだ。
柏はボロボロと泣いた。母がそんなに危ない状態だと知らなかった。またいつものように、大丈夫だったでしょ? と笑う母がいると信じていた。母の葬式に、誰も参列してくれないほど、彼女が孤独だったと知らなかった。いつも笑って、大丈夫だよと、母は嘘をついていた。それは、柏にとってあまりにも寂しかった。
それから、柏は腐るほど本を読んだ。とにかく読んだ。本は、柏を夢中にさせてくれた。北条都築の「愛執」ほど、柏の殻を殴りつけ、心をむき出しにさせた作品がなかったことは、彼にとって都合が良かった。
柏は本を読んだ。本は、柏を現実から逃してくれた。母の持っていた本を本棚の奥に押し込んで、自分の本を詰めた。溢れた本を机の上や棚の上に置いた。家族写真が邪魔になるくらい。
大学に入るとき、家を出た。荷物になるから、殆どの物は捨ててしまった。母と遊んだぬいぐるみ、少ない持ち金で買ってくれた黒いランドセル、母が捨てられなかった幼い頃の柏の服。
家を出たとき、柏のスーツケースの中に入っていたのは、本ばかりだった。
このときの柏の心は、嘘のように軽かった。新しい生活に、胸を踊らせることさえできた。
スーツケースを持って、新しい家までの道のりを歩いていたとき、書店を通りかかった。自然と足がそちらを向いてしまう。
「あれ、北条先生の新作だ」
迷わず手に取った。少ない所持金が全て消えようと、また自分の醜い部分を晒されようと、彼の世界が見たかった。
そこには、嘘っぽさの一切ない、凄惨な家族愛が描かれていた。柏の脳裏に、どっと母との思い出が溢れた。北条の描く理不尽の世界は、ただ面白いだけでない。柏と世界の間の壁をぶち破り、柏に自分の弱さと向き合う勇気をくれる。柏は持参したスーツケースを開けた。
柏は、母と幼い頃の自分の写った家族写真を、再び机の上に置いた。軽かった心は少しだけ重くなったが、それは心地の良い重さだった。それから、本は床にまで山のように積み上がっていった。しかし、その写真が邪魔だとは、もう思わなかった。
「そんなの、別に俺の本じゃなくても」
「そう言うと思ったぜ。結果論だろ。確かに何でも良かったのかもしんねぇよ。でも、あのとき確かに、俺はお前の本だったから救われたんだ」
彼の本が、柏自身を見つけさせてくれた。向き合わせてくれた。だから、救われた。
柏の壁を壊すのは、織の本でなければならなかった。織の描く、生々しい理不尽でなければならなかった。そうでなくては、柏の完璧な笑顔に、ヒビなど入れられなかっただろう。
「俺は北条先生の本が好きだ。永遠に読みたい。だから、お前の世話を焼く」
柏はにこりと笑う。それから、そろそろと目をそらして、小さな声で呟いた。
「……だから、サイン会に行きたい」
「それはマジで来ないでくれ」
「駄目だ、俺は行く。一目でいいから北条先生を生で見たい!」
「お前のその面倒な思考はどうなってるんだ?」
織は苦笑をこぼした。
「……よし、決めた。俺は借金をする」
柏が真面目な顔で頷いた。それを横目で見て、織が、大きくため息をつく。
「……ほら、柏。夕飯代だ」
織が柏の胸に1000円札を突きつける。柏の顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとう、織! お前は本当に、なんていいやつなんだ! ちゃんと給料日に返すから」
「……返さなくていい」
だから。
その続きがどうしても言えないのは、何故だろうか。文字を紡ぐのは容易いのに、言葉を紡ぐことは、こんなにも難しい。
「人に頼るのはガラじゃない。ちゃんと返すよ」
柏はヘラっと笑う。織はなんとか口を開いた。
「年下のくせに生意気なやつだな。たかが千円くらい素直に受け取れないのか」
「たかがって、いくらだろうと金は金だろ」
「家もないくせに見栄を張るな。それに、これは“夕飯代”だと言っただろう。一体何に使うつもりだ?」
柏はじっと織を見て、それから今度は手に持った1000円札をじっと見た。
「……ありがとう」
「うまい飯を期待してるよ」
織はふっと微笑んで、料理中の柏に小皿を突き出した。柏は驚いた顔をしたが、すぐに皿におかずを少し乗せた。織はそれを箸で摘み、口に入れる。
「……うん」
「お。織先生のOKいただきましたぁ」
柏はケラケラと大口を開けて笑った。
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