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第六話「堺の真実」

 まっすぐに並んだ長い列の中で、たくさんの頭がウキウキと揺れている。 「わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」 「い、いえ!」 「今日はどちらからいらっしゃったんですか?」  北条が、柔らかくも艶のある笑みを携えたまま、スラスラとペンを走らせる。彼の目の前で、女性は顔を赤らめながら、嬉しそうに笑った。 「あの、応援してます!」 「……ありがとうございます。頑張りますので、今後共北条をよろしくお願いします」  北条は、その賢そうな顔で、穏やかに笑った。  ネット上では、『北条先生神』だとか、『爽やかなイケメンだった!』とか言われていることだろう。現在携帯を焼失させてしまっている柏は、そんなことをぼんやり思った。  前の女性がいなくなり、柏は二、三歩進む。北条が、ゆらりと顔を上げた。 「……北条先生!」 「うぉ」  飛びつかんばかりの勢いで声を上げた柏に、北条が驚いて目を瞬かせた。柏は琥珀色の瞳をきらきら輝かせ、北条に曇りのない笑顔を向けた。 「はじめまして。俺、柏です! 先生の大ファンです!」 「……あ、りがとうございます」  北条は、苦笑にも近い笑みを浮かべた。 「…………柏さん、ですね。ご愛読ありがとうございます」 「いつも北条ワールド楽しんでます! 大ッ好きです!」  柏は、恥ずかしげもなく堂々とそう口にする。北条は、そっと目線を下げると、クールな表情を崩さず続けた。 「……そういえば、前、街中で僕を助けてくださいましたよね」 「え」  北条は、柏の本の見返しを開き、ペンを走らせる。「北条都築」と、素朴なサインが描かれた。 「…………あの時は、本当にありがとうございました」  北条は本を閉じると、柏に手渡した。それから、彼はにこりと笑う。 「…………今作も、楽しんでくれると嬉しいです」  少し恥ずかしそうに、しかし穏やかで、奥に色気を秘めた彼の笑顔が、柏の目に焼き付いた。  柏はゆっくりと、北条の前から歩き去った。書店の外に出ると、愉快な仲間たちが、向かいの店の窓辺の席から気だるげに手を振った。 「おかえり、柏」 「サインもらった? 見せてよ」  林と渡が、柏を取り囲むように話しかけてくる。柏は何も言わぬままゆっくりと椅子に座ると、大きなため息をついた。 「……やば……、どうしたらいい? めっちゃ北条先生だったわ……」 「何言ってんだお前」  堺が思わず言った。変な生き物を見るような目をしている。柏は気にせずに、サイン本を握りしめ、祈るように掲げた。 「北条先生かっこよかった……。実物マジ儚い、神」 「……初見みたいな反応するな。毎日見てるくせに」 「バカお前堺、北条先生と織は別モンなんだよ。……見せたかったもんもあったんだけどさぁ、緊張して無理だった」  柏の発言に、堺はため息をついた。確かに少しだけ気取ってはいるが、堺には、やはりいつもの織にしか見えなかった。  柏は織から借りたバッグに、サイン本と何か紙束のようなものをしまった。おそらく、彼の見せたかったものだろう。 「あれが噂の“北条先生”かぁ」 「いかにも小説家! って顔だな」  渡と林が、遠くにいる織の顔を目を細めて見ながらそう言った。柔らかそうな黒髪に、黒縁のメガネをかけて、細身で知的な顔をしているからだろう。彼はまさに、“文豪”を思わせる身なりだ。  柏は、隣に座っている堺に体を寄せた。 「……そういや、この前織に会ったってな。なんの話したんだ?」 「彼から聞いたのか?」 「ああ。『彼と何かあったのか?』ってきかれた」 「んだそれ」  堺はふっと吹き出すように笑った。 「ただお前の話しただけだよ。言う事聞かない犬だって言ってた」 「絶対違う話してるやつじゃねぇか」  柏がケラケラ笑っていると、堺の目が、一瞬、こちらを探るように揺らいだ。不自然な動きに、柏はぴくりと眉を跳ねさせる。 「……あとは先生の話も聞いた。同じ大学の卒業生なんだってな」  柏が驚いた顔をして、それから急に嬉しそうにぱっと笑った。 「……マジ!?」 「マジだ。つか、お前知らなかったのか」  堺は静かに答えた。柏は嬉しそうに笑う。まさか、尊敬する作家と、出身大学が同じだったなんて。柏は、これほど嬉しいことはないと思った。  その日の夕方、家に帰った柏は、サイン会帰りの織が帰って来るなり、すぐに駆けていった。 「織、お前同じ大学の卒業生だったのかよ」  織は、スーツの上着を脱ぎながら固まる。眉をひそめ、少しじっと床を見つめた後、ああ、と呟いた。 「……堺くんか」 「なぁんで教えてくれなかったんだよ! こんなにうれしいことねぇってのにぃ!」  柏はそうやって大袈裟に言うと、ケタケタ笑った。しかし、織は柏に悪態をつくことも馬鹿らしいと鼻で笑うこともせず、ただ目を伏せた。柏は片方眉をひそめる。 「織?」 「それ以外に何か聞いたか?」 「いや何も。堺マジなんも教えてくんねぇからさ。何かまずいことでもあったのか?」  織はほっと胸をなでおろす。 「いや、何もない」  織は嘘をついた。  彼は、知らなくていい。ただでさえ心配性の男だ。きっと、そういう暗い話は知らぬほうがいいだろう。 「……あ、そういや、同じ大学って聞いてピンときたんだけどさ、辻もおんなじようなUSBメモリ持ってきたんだよ。ちょうどあんなの」  柏は笑顔のまま、そう言った。一瞬で、織の背筋がゾッと凍った。織は、ゆっくりとした動きで、眼球を柏の方へ動かした。 「……辻?」 「ああ、前の彼女。堺の紹介で付き合ったんだけど、俺がなんかしちゃったみたいで……、すぐ別れた」  柏は、顎に手を当てる。 「確かなんだっけ……、じゅう……No.18とか書いてなかったかな」 「No.18……辻……、……辻彩乃か!?」 「え、なんで辻の名前知ってんだ?」  柏が、目をパチパチ瞬かせる。織は、青白い顔で柏の服を掴んだ。柏が驚いた顔をして織を見る。 「……辻彩乃が、前の彼女だって言ったか?」 「そう。あ、同じ大学なら、もしかして辻と知り合いとかだった? あ、あのUSB、もしかして部活とかサークルの道具とかか?」 「……」  織は黙り込んだ。青い顔でうつむいてしまった織の肩に、柏が心配そうに手を触れた。 「織? 大丈夫かよ」 「…………辻さんは、なんて言ってお前にこれを持ってきた?」 「……ああ、『見覚えあるか』って。いつもは静かな子だったんだけど、あん時はマジで怒ってたし泣いてたし、びっくりしたから覚えてる」  ナンバーの書かれたUSBメモリ。癖のある字が、確か彼女の持っていたものにも書かれていた。 「俺たちさ、それが原因で別れたんだよ。『見覚えない』って言ったら『嘘つき!』って怒鳴られて」  柏が、ゆっくりと俯く。あんなふうに人から言われたのは、初めてのことだった。 「……俺、やっぱ何かしたんだろうな。……あんなに泣かせて、でも何したか分かんねぇって、一番最低だな」  織はゆっくりと顔を上げる。柏が悲しんでいる。それが織にも分かった。織の手が、ゆっくりと持ち上がる。柏の手のひらに触れる寸前で、その手は空を切り、だらんと力を失った。  「今更、アイツのことが知りたくなりましたか?」  腕と足を組んで椅子に座り、堺は刺々しい声音でそう言った。織は、そんな彼を特に怖がったり面倒がったりすることなく、淡々と答えた。 「…………柏の過去の話なら、柏から聞くべきだと思ってる。だが、もし柏の話だとしたら、柏から聞けるはずがない」 「“知らない”か。柏が隠してるとは思わないわけですね」  織は眉をひそめる。それではまるで、彼は柏を疑っているようではないか。彼が前に言っていた、“柏を信じている”という言葉は、もしかすると、決意ではなく、願望だったのかもしれないと、織は思った。 「……柏が貴方に疑われるようなことをしてきた。だから、俺に話を聞きに来たんでしょう?」 「柏は、自分について知らないことがあると感じたから聞きに来た。彼について、君が知っている話を知りたいだけだ。俺は決して柏を疑ってなどいない」 「……だから最初に忠告したってのに」  堺は、吐き捨てるようにそう言って、ストローをカラカラと回した。マスカットの果肉が、明るい黄緑色の液体の中をふわふわと漂う。 「まあ、貴方が柏とどうなりたいと思っていようが関係ありませんが。馬鹿げた気持ちは、すぐになくなりますから」  堺の目が、織を真正面から見据えた。織は、まるで、彼に試されているような心地がした。 「…………柏の元カノの辻彩乃は、俺の友人でした」  堺は、ゆっくりと話しだした。  辻とは、幼稚園の頃からの友人だった。友人と言っても、ただ家が近かっただけで、周りに比べて特別仲がよかったわけではない。しかしそれでも、流石に何年も一緒にいれば、自然とどこか特別な存在になるものだ。堺と辻は互いを大切に思っていた。大学まで同じだとわかったときは、流石に少しうざったくも思ったが。  大学に入ると、自然と交流は少なくなった。しかし、二年生に上がった頃、堺は、突然、辻から「柏を紹介してほしい」と頼まれた。彼女曰く、柏とはサークルの混合飲み会で出会い、その容姿と性格に一目惚れしたのだという。堺は渋ったが、辻にせがまれて、仕方なく彼女を柏に紹介した。辻のことを、一目惚れの話も含めて柏に話すと、彼は大層驚いた顔をしていた。彼は、優しく笑って辻を受け入れた。ほとんど初対面のような二人だったが、いつのまにか、自然と普通の恋人らしくなっていった。二人とも読書好きだったこともあり、傍から見ていて妬ましいほどには、仲が良かったように堺には見えていた。  柏と辻が付き合いだしてから、四ヶ月ほど経ったある時、突然、辻から堺に連絡が届いた。珍しいことに、堺はゲームの手を止める。携帯の画面を見て、セーブも忘れてすぐに家を飛び出した。 「…………彩乃!」 「祐輔」  辻は、大学のそばの公園のベンチに、ひとりぽつんと座っていた。彼女は、数週間前より少し痩せたように見えた。堺は息を切らしながら、辻に駆け寄った。 「……大学やめちまうって、何……、お前……」 「ごめんね。もう無理、なんだ」  昔から、辻は活発な方ではなかったが、穏やかで優しい、優等生なタイプだった。しかし、気弱ではなく、はっきりとした芯を持ち、決して弱音を吐いたりするような子ではなかった。 「何があったんだよ」  その子が、今、震えながら謝罪を、弱音を口にした。堺は、これはただ事ではないと思った。 「…………祐輔」  辻は、ゆっくりと携帯を持ち上げ、その画面を堺に見せた。堺は、眉をひそめて画面を覗き込む。 「……な、これ……っ!」  堺は、顔を逸らした。そこにあった映像は、とても直視できたものではなかったからだ。 「……ちゃんと見てよ」  辻は声を震わせながらそう言った。堺は首を振る。 「ねぇ!!」  堺は再び首を振ったが、辻は携帯の画面を、無理矢理堺の目の前に持ってきた。彼女は目を赤く腫らして涙を流しながら、堺が今まで見たこともないほど怒り狂った様子で叫んだ。 「……ッ、レイプされたの!! 何時間も動画撮られて、知らない人とセックスさせられて、周り、で、見られて……っ! っ、なんかい、だし、だしたら、は、はらむかなって……っ、う、っ……」 「あ、彩乃……!」  恐怖からか、思わず嘔吐いた彼女の背を撫でようとした堺の手が、パシンとはね飛ばされる。堺は、一瞬、ショックを受けたような顔をした。 「…………ごめん」 「何に謝ってるの!?」  辻はそう叫んだ。しかし、堺の不安そうな顔を見て、はっと表情が変わった。 「……ごめんなさい。祐輔は悪く、ないのに……」 「っ、誰にやられたんだよ、誰に……ッ」  堺は声が大きく荒くなりそうなのを、なんとかこらえてそう尋ねた。辻が顔を上げる。 「俺がとっ捕まえて殺してやる。誰にやられたんだよ、教えろよ……!」 「……誰っ、て…………」  辻は、絶望した顔で堺を見た。まるで、信じていたものに裏切られたような顔で。その瞳が歪み、つうと涙が伝った。  その時、堺は気が付いてしまった。 「…………柏は、どうした?」  ……そうだ、そういえば、何故柏はここにいない? 今、一番に彼女が頼るべきは、彼だったのではないか? 何故、柏ではなく、自分に……。 「まさか…………柏が?」  辻の表情は、さっと代わり、彼女は口を抑えてうずくまった。 「っ、う、嘘だろ……。だって、柏だぞ……」 「私がそんな嘘つくと思うの!? ……柏くんが、……あの人が私を売ったの! ……柏くんが私を縛って、106教室まで連れ込んだの! アイツが、私を売ったんだよ!」  ここまで感情的になる辻を、堺はこの十数年で初めて見た。  堺は、体の底からずっと怒りが湧き上がった。辻が裏切られたことに対する怒り。自分が裏切られたことに対する怒り。自分の大切な人が、傷付けられたことに対する怒り。 「……っ! 駄目っ!」  気付けば、堺の手には携帯電話が握られていた。その手を、辻が強く掴む。堺の携帯には、黒い画面に“柏”の文字が白く浮かんでいた。  辻は顔を上げずに、震える声で言う。 「お願い、柏くんを責めないで……っ」 「な、に……言って……」 「ごめんなさい、祐輔。……でも、柏くんに、私のことで後悔させたくないの……っ。柏くんには、幸せ、で……っ、いて……ほしい……」  辻はどこまで彼を好いているのだろう。堺はギリと歯ぎしりした。何故、彼を。  堺は、電話を切ると、携帯電話を地面に叩きつけた。辻の肩を掴み、彼女の瞳を見つめる。彼女は、怯えた瞳で、堺のことを見た。 「…………ありがとう。……祐輔、約束して。柏くんに、この話はしないって。……私は、柏くんが憎いけど、……でも、柏くんが、大好きなの」  堺は、少し戸惑ってから頷いた。彼女は、安心したように、口の端をほんの少しだけ持ち上げて、泣き出した。

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