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第七話「辻の嘘」

 話し終えると、堺は一度飲み物を一口口にした。彼が語ったのは、彼がずっと、誰にも話すことがなかった絶望と怒りだった。織は真剣な表情で、彼の次の言葉を待った。 「……辻は、本当にいいやつなんです。……誰かに恨まれたり、まして、誰かを恨むような奴じゃなかった……」  堺は呟いた。 「それを、アイツが変えたのが、俺は……許せないんです……」  織は彼の話を無言のまま聞いていた。 「…………俺だって柏を信じたかった。信じていたんです。……でも、そしたら辻を信じていないことになる」  堺は淡々としていながらも、苦しそうな声でそう口にした。 「辻が嘘を吐くはずない! あんなに、あんなに苦しい思いをした彩乃が、嘘なんか吐くわけない……」 「……君は、ずいぶん彼女を好いていたんだな」  織が突然口にした言葉に、堺はハッとした顔で頭を上げた。 「君の話を聞いて安心した。やはり、柏は無関係だ」  織ははっきりとした声で言い切った。堺が眉間にシワを寄せて、不満げな顔をする。それから、こちらを小馬鹿にしたように口を開いた。 「相手が柏となると随分甘くなりますね」 「……君が、俺に何を疑っているのか知らないが、俺はあいつらより柏が信用なると思っているだけだ」 「……あいつら? 研究員のことですか? 今は柏か辻かって話でしょう。俺だって、柏とあいつらなら、柏を信用しますよ」  織は、ゆっくりと息を吐くと、椅子に座り直した。 「……まず、君の話した真実には、事実でないところがあるだろう」 「……どういう意味ですか」  堺は、眉をひそめた。真面目な顔で、織を見つめる。 「……なるほど。君は紳士だな」  堺は、それこそどういう意味だという顔で織を見ていた。 「……辻さんが、柏に売られたと知ったのは、106教室に入ってからだった。辻さんは、あいつらから聞いて初めて、それを知ったんだ。……辻さんが柏に縛られて連れて行かれたなんて話はでたらめだ」  堺が辻の資料を、特に映像を少しでも見ていれば、辻の嘘は、すぐに嘘と分かるものだった。しかし、堺は、映像はおろか、文字さえ目に入れなかったようだ。 「なぜ、貴方がそんなことを知っているんです」 「……俺は資料を読み聞かせられたから知っているだけだ」 「…………報告会ですか? 被験体の中で、貴方だけが特別に参加していたという」 「君はそんなことまで知っているのか?」  織は、辻が襲われた時その場にはいなかった。しかし、この自称研究集団には、研究員たちが研究資料を読み合う、研究報告会というものがあった。研究資料には、研究の内容が事細かに記載される。研究資料感を出すために、その内容は、できるだけ事実のままに書かれていたが、自分たちに都合の良いように内容が組み替えられたり、誇張されたりしたものも少なくはなかった。織はそこで、辻という被害者がいたことを知った。 「……辻さんは、最初はずっと、そんなのは嘘だと言っていたそうだ。彼はそんなことしないと。……もし彼女が、柏から縛られて連れて行かれたのなら、そんなことを言うと思うか?」  例えどれほど良い彼氏であったとしても、縛られて連れて行かれれば、流石に疑うだろう。しかし、彼女はそうではなかった。 「彼女は強い人で、ずっと嘘だと言い続けていた。だが、最後は恨むような声で、彼氏の名前を唸ったらしい」  織は、彼女の映像資料を見たことはなかった。そして、資料には名前が載らない決まりがある。だから、彼女が唸った名前が「柏」だとは知らなかったのだ。  堺は納得できないのか、低い声で言った。 「……じゃあそれが、貴方の言う通りに辻の嘘だとして、結局柏が辻を売った可能性はまだ消えてないですよね」 「……君は、研究員と被験体の関係なども調べたか?」  織は尋ねる。堺はにやりと笑う。 「……いいえ?」 「…………被験体になった人間は、ほとんど研究員の知り合いだった。それこそ、研究員の彼女やセフレばかりだ」  それが、彼らがそこまで伸び伸びと犯罪を犯せていた理由の一つでもあった。辻が関わるまで、ソレは仲間内での遊びに過ぎなかったのだ。だから、誰も、このばかげた集団にそこまでの危機感を抱いていなかった。頭のおかしい彼らに関わりさえしなければ、皆平和で暮らせていたからだ。 「……だからおかしい。研究員以外から売られたなんて理由で被験体にされた人は、それまでいなかった。……無関係な人を巻き込めば、これまでのように遊べなくなるのは、あいつらも分かっていたはずだ。だから、もし柏が辻さんを売ったのなら、柏は研究員であるはずだ。だが、辻さんはこの研究絡みで、結局柏を一度も見ていないようだし、俺もあの組織で柏なんて名前聞いたこともなかった」  織は堺を真っ直ぐに見た。 「……柏はただ巻き込まれただけだとすれば、納得できないか?」  堺は固まる。それから、頬を引きつらせた。 「じゃあ、なんで彩乃があんな目に遭ったんですか。研究員とも関係ない、柏も研究員じゃないなら、彩乃があんな目に遭うはずないだろ!?」 「…………」  織は俯く。それは、織にも分からない。なぜ彼女でなくてはいけなかったのか。なぜ柏が巻き込まれたのか。そもそも、本当に彼女でなくてはいけなかったのか? 「……辻さんの後の番号は、ほとんど、彼らとは関係のない女性だ」  織は言った。  彼女でなくても良かったのかもしれない。彼らは、顔ぶれの変わらない被験体に飽きていたのだろう。たまたま、最初に目をつけられたのが、彼女だった。 「……おそらく、辻さんは、自分を守るために柏を恨んでいる。心の奥底では、分かっているはずだ。柏はそんなことしないと。……自分は嘘をつかれているんだと。……だが、嘘を信じてでも、誰かを恨まなきゃ、あんなのやってられない。だから彼女は、君に話すとき、嘘をついたんじゃないだろうか。嘘をついて、自分が襲われた理不尽に、なんとか理由をつけて、納得したかったんだと思う」  織は淡々とした口調で述べる。それは、彼が話すこの話が、作り話ではないことを証明しているようだった。 「柏はきっと、本当に何も知らない」 「……分かったような口きいて……、じゃあ、彩乃が、自分を守るために、彼氏を槍玉にあげてる女だって言いたいんですか? アンタはただ、柏を守りたいだけだろう……、アンタに何が分かるってんだ」 「分かるんだ」  織はまっすぐに堺を見た。堺が、眉をひそめる。 「……どんな苦痛だろうと、明確な理由があれば、なんだか、少し心が軽くなる。理屈のない苦痛ほど、怖いものはないだろう。……君にもわかるんじゃないか? この不運は自分のせいじゃない、コレのせい、アレのせいって言い訳して、納得したくなる気持ちが」 「彩乃はそんなやつじゃない!」  堺は叫ぶ。織はびくりと肩を震わせて、それから俯いた。 「……すまなかった、言い方が悪かったかもしれない。……俺は辻さんが悪かったとは思っていない。身を守るために嘘を吐くことも、悪いことだと俺は思わない」  織はコーヒーを啜り、ひと呼吸置いてから続けた。 「…………堺くんは、柏を信じていないんだな」 「信じてます。信じているから裏切られたくない」  堺は口の端を持ち上げて、ひきつった笑みを浮かべた。織が、じっとその顔を見る。 「…………柏を信じているのなら、そんなに恐れる必要はない」  織はガタンと立ち上がる。堺が慌てて織に尋ねた。 「どこ行くんですか」 「ここで部外者同士議論しても、柏の疑いは晴れない。柏に直接確かめるべきだろう」 「だ、駄目だ!」  堺は思わず大声を出した。織が、眉をひそめて怪訝そうにする。堺は切羽詰まったように笑みを浮かべながら言う。 「貴方……信じてるって言いますけど……、……いいんですか、柏があいつらの事を知れば、貴方の過去だって知られることになる……」 「……構わない、俺は……」  堺は織の服を掴み、言った。 「No.12は、初期メンバーのNo.5と並んで、実験に意欲的だった被検体だ。……なにより、自分で被験体に志願したそうじゃないですか。その後、所長と呼ばれていた男のお気に入りにもなった。……俺には、とても貴方がそんなふうには見えませんが、そうなんでしょう?」  織は目を見開いた。彼らは、自分たちに都合の悪いことは改変するが、自分たちに都合の良い事実は誇張も改変もせず、ありのままに書き記す。堺は畳み掛けるように口を動かす。 「知られたくないでしょう。馬鹿で純粋なあいつがどう思うかなんて目に見えてる」 「…………」 「ねぇ、やめましょうよ……お願いだから……」  堺は俯く。織はゆっくりと彼の手首を掴んで自分の腕から引き離すと、やけに落ち着いた声で言った。 「……俺がどんな人間か分かれば、あいつも、あんなふうに、俺に世話を焼かないかもしれない」 「……いいんですか、それで。よくないでしょう、ねぇ!」 「……俺に柏は綺麗すぎる」  織は、自らを卑下するように笑った。堺は首を振る。 「違う、駄目だ……」 「駄目?」 「…………柏に、知られちゃいけないんだ……」  堺は俯いて、手をぎゅっと組んだ。 「……お願いします。……彩乃との約束なんです」  織は、ゆっくりと席に戻った。 「……彩乃は望んでなかった。組織の解体だって、事実だって望んでなかった。ただ、柏に何も知らないでいてほしいって、柏に後悔させたくないって言ってた。けど、俺は…………」  堺の目から、ぽろ、と涙が一つこぼれた。 「…………ああ、アイツきっと嘘ついてたんだな。柏があいつらと繋がってるなんて証拠は、どんだけ探したって結局一つも見つかんなかったんだから」  あれだけヤケになり、組織を壊滅させて、すべての資料を得ても、柏の名前はちらりともしなかった。研究員たちと柏の繋がりも、何一つ掴めなかった。  それは、柏の身の潔白を明確に示していたというのに。 「自分守るために彩乃がついた嘘を、俺は暴こうとした……。柏を悪者だと証明する証拠を集めようとした……。俺は、柏のことも、彩乃のことも、結局少しも信じちゃいなかったんだ。ただ、傷つけようとした……」  堺はぎゅっと、画面のヒビ割れた携帯を握りこんだ。織は、堺は、不器用な人間なのだと理解した。なんだか、自分とよく似ている。織は、堺の肩に手をおいた。  分かった、と織がひとつ呟くと、堺は顔を上げた。織はこくりと頷く。心から安堵したような顔をして、彼はまた泣き出した。 「……彩乃は、柏の、人を疑わない、世間の闇を少しも知らないような無垢な優しさが、あの純粋な笑顔が好きだったんだって」  去り際、堺はそう呟いた。 「…………アンタはどうです、織さん」  織は答えなかった。 「俺は柏のそういうとこ、嫌いです。つまり、周りに守られてきた苦労知らずってことでしょ。周りが柏に世界の暗いとこ見せなかったから、柏は善意100%(パー)で人に優しくできてる。それに気づかないで、いかにも自分だけの力で善人でいるみたいにして人に優しくしてんの、クソ気持ち悪くないですか」  堺はにこりと笑った。  堺は、柏の特に仲の良い友人だ。彼は、柏の過去も、柏が実は不器用なことも知っているのだろう。 「君は嘘を吐くとき、よく笑う」  織に言われて、堺は口元に手を当てた。織はゆっくりと堺に背を向け、家に向かって歩き出した。  「ただいま」 「おかえり!」  柏の、溌剌とした声が届く。当たり前なのだが、いつも通りの彼に、織は、なんだか少しだけホッとした。パロが足元でキャンキャン跳ねる。 「織ぃ! そのへんに卵ない?」  パロにかき消されまいと大声で、彼はそう叫んだ。織がちらりと玄関脇を見ると、ビニール袋がそのままそこに放置してあった。 「悪いな、ありがとう」 「……なんであんなとこに」 「置いてたの忘れてたんだよ。ありがとな」  柏は申し訳なさそうに笑うと、ビニール袋から卵のパックを取り出して、卵を二つ手に取った。どうやらスープに入れるらしい。 「……今日はどこ行ってたんだ? 打ち合わせ?」 「いや、今日は堺くんのところに」 「堺? 最近仲良いんだな」  織は苦笑した。性格には近いものを感じるが、仲がいいとは決して言えないだろう。 「何の話してたんだ? あ、堺、俺にノート貸せとか言ってなかったか?」 「いや、言ってなかった」 「ならいいや。アイツ救済措置のある科目は全部救済措置で乗り切ろうとするとこあるからさ」  柏はケタケタ笑いながら、菜箸を動かす。  織が、いつもの席に座ろうとしたとき、見慣れないものが視界に入った。机の上に、何か乗っている。 「……宿泊券?」 「……あ、そうそう。それ、さっき編集部の人が置いてったんだよ。パロも泊まれる温泉宿」  それは、ここからそう遠くない、温泉の有名な宿の宿泊券だった。きれいな風景を背に、大型犬が温泉に入っている写真が載っている。 「行ってこいよ、たまにはさ。パロもご主人と二人きり、嬉しいよなー?」 「……へぇ。俺は行かないけど」 「え、行かねえの!? もったいない」  柏は料理を盛り付けてしまうと、足元までかけてきたパロを抱き上げた。パロは嬉しそうに短い尻尾をぴるぴる振り、柏の顔を舐めた。 「温泉行きたい人ー? はーい」 「パロで遊ぶな」  織に淡々と返され、柏はしぶしぶパロを下ろした。パロはへっへと笑いながら、今度は織の元へかけていく。柏は手を洗うと、席について手を合わせた。織も、いただきます、と手を合わせる。   織はもくもくと料理を口に運んでいく。おいしいかとわざわざ尋ねずとも、彼がこの料理に満足しているのが分かり、柏は嬉しくなって口を抑えた。 「…………柏は?」 「うん?」 「柏は行きたくないのか」  突然、織が尋ねてきた。柏は眉を下げて笑った。 「俺かぁ、金ねぇからなぁ」 「そろそろ給料日だったろう」 「……いやぁ、けどほら、家も借りる金も貯めなきゃだろ」  織の手が、一瞬ぴたりと止まる。柏は首を傾げたが、特に何も言わずに口に白米をかきこんだ。  織は、しばらくはせっせと料理を口に運んでいたが、やがて決心したように顔を上げた。 「……やっぱり行こう」 「ん?」 「旅行だ。柏も」 「えっ、俺も!?」  柏は箸を咥えたまま大声を出す。織は顔をしかめた。 「よく考えたら、この生活はエッセイのネタにするんだった。……正直旅行くらい行かないと書くことがない」 「えぇ、それまだ健在のアイディアだったのか!?」 「じゃなきゃお前なんか拾うか」  織は、妙に急いで料理を口に詰めると、飲み下した。柏は複雑そうな顔をしている。 「……けど、俺旅行なんか行ったら絶対金使っちゃうし……。期間が伸びたら織に迷惑だろ?」 「…………使わなきゃいいだろう」  織は茶碗を下ろし、手を合わせた。柏は、やけに織の動きがぎこちないのが少しだけ気になった。 「ごちそうさま。移動費は俺が出すから。予定あとで合わせよう。風呂入ってくる」 「お、おお。……あ、プリンあるぞ」 「あとで食う」  織は、足早に風呂場へ向かった。勢い良く服を脱ぎ捨てると、浴室に入り、シャワーの水量を最大にした。頭から冷たい水を被る。 「……ああクソ、やってられない」  一度シャワーを身体から放す。織は鏡を見られなかった。顔が熱い。馬鹿のようだ。 「……あんな奴、ずっとここにいればいいんだ」  織は詰まった声で吐き捨てた。

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